机上の思索……積み重ねた言葉が溶けて消えるとき

実生活では相変わらず傾聴を続けている。
普段はずけずけと物を言うが、傾聴では信じられないほど優しく他者に寄り添う。
発話者の苦痛をあたかも「自分事」かのように感受し、共感の限りを伝えるよう頷き、すべて肯定して聴く。
実生活では誰にも解ってもらえなかった発話者の苦悩が、傾聴で初めて他者に受け入れられる。
発話者にとって初めての「理解者」に出会う。
自分事のように聴いてくれる傾聴者である私は信頼され、安堵し喜ばれる。

ある日、精神科医に私の傾聴を観察してもらい、指導を受ける機会があたえられた。

かなりの確率で発話者から信頼され、安堵し喜ばれているという自覚がある私にとっては、何を指導されるのかが楽しみだった。
その日の傾聴もいつものように聴くことができ、発話者は笑顔になり納得したように感じた。
さて傾聴後の精神科医からの指導は、、、
「少し寄り添いすぎです。もう少し中立でもいいのではないか」だった。
ん?なんだ?寄り添いすぎ?
これまで教えられたことは「発話者に寄り添うこと」であって、それを実践してきた私は意表をつかれた。そんなことは聞いたこともなく、発想もまったくなかった。
それで、指導者に言葉の真意を聞いたのだが、感覚的にそう感じた、などといわれ要領を得なかった。

それでも考えてしまう体質なのだ。

寄り添うことは必要、でも、寄り添いすぎることは拙い、とは距離感のことだろう。
これまで他者との関係がうまくいかなかった発話者に、身近な関係性は必要ではあるが、近すぎてはいけない、ということだろうか?
傾聴が発話者を全肯定し受け入れる前提だからこその、落とし穴があるということなのか?
発話者が無条件に受け入れられたことで安心し、そこで安定してしまい、傾聴者への依存に繋がってしまってはなんのための傾聴か解らない。傾聴の目的はなんでも話せる友人づくりではないし、一時の安堵だけでもない、ましてや依存をつくることでは絶対にない。
もしかしたら、発話者が安堵し喜ぶ声を聴くことで終結するのは傾聴者の自己満足ではないのか?という思いが浮かんだ。
傾聴者にとっても、暗澹としていた発話者が徐々に明るくなり気持ちが晴れれば嬉しい。充足感が得られる。ところがそれが結果的に傾聴者だけの満足に繋がっているのではないか? 発話者も一見心が晴れて喜び解決したようにみえて、発話者が傾聴によって本来得るべき何かには至ってなければ、単に傾聴者の満足だけになるのではないか?
傾聴によって発話者が得られるもの?
発話者が発話することで、自らの裡にひめられた力を発露させること。人にはそうした力があることを経験的に感じている。
もし、寄り添いすぎることで、人のもつ裡なる力の発露を阻害するとしたら、、、、それは弊害であり、傾聴の目指すところではないではないか?
寄り添いながら、寄り添いすぎない適度な距離感とは、、、

これが、指導者の指摘から私が机上で思索した一つの結論である。

机上の思索であるから、実際の適度な距離感がどれぐらいのものなのか解らない。
その距離感をどう作り、どう保つのか見当もつかない。
今は意識さえしなかった「距離感」を、初めて意識した、に過ぎない。
そもそも指導者の言葉から私が勝手に机上で思索したことに過ぎないので、その思索が誤りかもしれない。
それでも意識したのだ。
何かしらの意識がなければ、指導者の言葉の意味を識ることはできないと考えている。机上の意識から始まり、何度もリアルな傾聴と机上の思索を繰り返す気がしている。

いつか、その答えを体得したときに「ああ、あのときの言葉はこういうことだったのか」とニヤリと笑うかもしれない。やがて私の机上の思索によって積み重ねた言葉は飽和し、机上の思索が姿を消していく。そこからは意識さえなくなり、感覚だけが身体化されていくのかもしれないと思っている。

これは傾聴だけではないな。
このさき自分自身におきることについても、思索が飽和し意識するまでもなく身体化されていればいいのだが。


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