ウェブリブログにて生きる魂の死刑宣告

biglonbeからメールが来た。
ウェブリブログが2023年1月に廃止されるという死亡宣告だった。
noteのまえはウェブリブログを使って表現をしていた。
最近は放置したままだが、かなり長い間そこで生きてきた。
2006年の3月から2018年8月まで、テキスト中心で「エントリー」した記事の数は925件ある。
通算のプレビューが1,224,928で昨日のアクセスも89名、384pvとあった。

印象的なエントリー以外はほぼ忘れている。
タイトルをみて2-3気になるエントリーを読んでみた。
驚いた……、これ、自分で書いたんだよなぁ。
全体を振り返る。
政治や時事ネタが多い。
大地震や原発事故、不可解な殺人や似非科学、心理や哲学……。
育児や保育や学童のこと、障がい者や精神的なもののあれこれ、、、
ただの感想だけでなくすべて思索してきた。
かなり面倒な思索が延々と語られている。
さらにさらに、コメント欄で100以上のさらに難解な討論がされているものもあった。
そのコメント欄では納得できずに、続きのエントリーがなされていた。
じっくり読むと蘇ってくる、ワタシが忘れていた私の魂だった。
これほど思索を深め真理を追求していたんだ。
ゆったりとしたnoteでは表出しない、それでも間違いなく私自身の生きた証だった。
そこには10年以上培った魂が生きていた。
ワタシが放置していたにかかわらず、私はテキストとして生きていた。

その頃、思索を闘わせた戦友とは最後には仲違いをして別れた。
noteでもいっしょにいた最後の一人も結局はしかり。
それは必然だったのかもしれない。
10年以上、熱く激しく生きてはきたがそれは机上だと感じた。
もちろんリアルで同時進行していたこともあったが、何か充実感は乏しかったのかもしれない。
机上から離れなければと思った。
10年の思索実践の実感が欲しくて「傾聴」を始めた。
それと同時に机上では感覚的な写真による表現がほとんどとなった。
(もちろんこれは、机上以前に撮影というリアルがあるのだが。)

さて、死刑宣告がきたウェブリブログのなかの人格をどうしたものか?
もう過去のものとして、見捨てて消去していいのだろうか?
過去の人格の消滅は、今を否定することにはならないだろう。
すべては時をへて、現在に至っているはずだ。
忘れ去られたことは言葉が溶けて身体化されているか、、、
それとも、必要がなく置き忘れたか、、、。
いや当時の思いは自分だけのためでなかったはず、ならサルベージするか?
いまだ訪問者やpvがあるということは、移植して延命してもいいのかもしれない。
ただ私自身としてはもう終わっているという感覚は拭いきれない。

宣告の期限が2023年1月かぁ、、、、感傷にしたる時間はあるな。
少しづつ未だそこに浮遊する私をサルベージしつつ考えるとするか。

よろしければサポートお願いします