幸福ということ

よくよく考えてみると「幸福」とは不思議な言葉に思えてきた。
幸福な状態のときに、わざわざ言葉にして「幸福」と言うのだろうか?という疑問。
言うよ、と言われるかもしれないかな。
でも、多分それを言葉にして言うときは、本当に幸福な状態から少し落ち着いてしまったとき、とか少し過ぎたとき、それとも他者に対して。
自己のその状態の渦中にあるとき「幸福」という曖昧でとってつけたような「言葉」でわざわざ言い表さない。
そんな言葉の発想もないほど、何かに向き合っているときが幸福という気がする。
仕事も引退して仕事の煩わしさから解放され、経済的不安もなく、生活の不安もなく、健康的不安もなく、自由な時間もあり、拘束もされない。
でも向き合うものもない、というのは幸福というのだろうか?(実際にこれを嘆く老人と会ったことがある)
前のnoteでメモをした人工呼吸器ユーザーの海老原さんは、この社会では不安はあるだろう(ないかもしれないが)が、向き合うことが多くあり、率直に向き合っている。(説明の記述として「幸せ」と書いているが)幸福という言葉をあてはめなくても、そうした状態なんだなと感じる。
他者は不幸と考えるかもしれないが、真摯に向き合っている彼女は、幸・不幸という言葉を超えている。それが幸福。
たとえば、自らの精神的な特性が社会的普通や一般性とは違うという不安をうけとめながら自らの感受性や繊細さに向き合う人や、なにかしら不安をかかえながらも写真や写真展に真摯に向き合っている人、ピアノでも漫画でも詩でもエッセイでも介護でも、そんなことに通して自分や生きることに向き合う人は、あえて言葉にするならやはり「幸福」だろう。
決して「幸福」という言葉をわざわざ当てはめなくても。

なんにしろ真摯に向き合っていればなにかしら一つの手応えを得るかもしれない。何か「わかる」とか、何か「身につく」とか、何か「解放される」とかの実感。
でもやはりそれはゴールに向かうのではなく、一つの手応えは次の多数の未知を引き出す。
未知は不安かもしれないが、喜びでもある、と感じるかどうか?
喜びである、と感じられる状態が幸福。
真摯に向き合っていれば喜びと感じるはず。向き合うことに終わりがなくなるから。
自ら向き合う何かがなければ、他者の煽る不安を真に受け不安でしかなくなる。
それは不幸。

人生はプロセスでしかないな。
わかる、が、わからない、に繋がる永遠のプロセス。
ただ、向き合い、終わりのないプロセスを受け入れ楽しむ。
わざわざ「幸福」なんて言わない、ただ向き合いつづけるだけ。


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