覚醒と解放、のち・・・@傾聴

タイトルだけを観てエヴァを思い出す人はボクと同じでちょっとヤバイ、笑
アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の初期の山場が浮かぶ。
で、なぜ「@傾聴」なのか?
別にふざけているつもりはないのですが、、、^^;
とりあえず、セリフだけ書き出してみます。

赤木リツコ「拘束具が、、そうよ、あれは装甲板ではないの、エヴァ本来の力を私たちが抑え込むための拘束具なの。その呪縛が自らの力で解かれていく。私たちにはもうエヴァを止めることができないわ」

加持「初号機の覚醒と解放、ゼーレが黙っちゃいませんぜ、これもシナリオのうちですか、碇司令」

冬月「はじまったな」

碇ゲンドウ「ああ、すべてはこれからだ……」

(まさかの其の場面を観たい方がいたら、、、一応youtubeのリンクを貼っておきます、笑、https://www.youtube.com/watch?v=A89blUjT7z8

ボクは傾聴のときにこの場面を思い出す。
話し手の覚醒と解放、自らの力で呪縛がとかれていく。もう誰も話し手を止めることができない。加持の言うゼーレとは支配者とか社会とか道徳とか倫理とか体裁とか企業目的とか他者の抑圧だろう、きっとそいつらは黙っていない。
でも、ボクはつい「はじまったな、すべてはこれからだ」と心の奥でつぶやいてしまう^^;

人は他者から自己を守ろうと装甲板を身につける。
これはどうなんだろう、例えば解りやすく言えば処世術というヤツなんかのことかもしれない?。
ある環境のなかで他者と「うまく」繋がり、自らの裡にある本質をさけつつ「なれあう」から自らが傷つくことを避けられるかもしれない。ただその処世術というやつは、自らの思いや力もやはり抑え込んでしまう拘束具でもある。他者から護るということは自らを殺しているのかもしれない。
自らの感性、自らの思い、ホント(仮)の自分を抑え込み抑圧をする。
抑え込むことが他者から自己を護るという側面もある。
装甲板であり拘束具であり、呪縛である。
呪縛の苦悩に鈍感な人はこのことが解らない。
【大人】である。
立派な【社会人】である。
わからないままの大人でいられる。
ところが、ある素直な人々はその呪縛により自ら苦しむことになる。
呪縛は強いほど、呪縛が永いほど苦しみが深い。

ボクの経験だけなのだが傾聴は話し手の処世の失敗から語りはじめる。
自らの社会的な正しさとの齟齬と、言い訳からはじまる。
根気よく聴き続けると、呪縛@装甲板&拘束具にヒビが入り覚醒が始まる。
装甲板・拘束具の崩壊である。
本心の吐露であり、本音の爆発である。
泣き出すことが多い。
泣きだし、そして怒りだす。
怒りださずに泣き崩れる。
覚醒の様子は違うが、その切り替わりの変化があり、端的に感じる。
ボクはつい「はじまったな、すべてはこれからだ」と心の奥でほくそ笑む。
そして赤木博士のいうように「もうボクには止められないんだ、と決意をする」。
全てを受け止める決意。
話し手、自らの覚醒はやがて自らの解放へつながっていく。
解りやすくいえば、笑いへと変わる。
泣き笑いのこともあれば、すっきりとした笑顔のこともある。
(一時的なものかもしれないが、一歩には違いないと思う)

解放があるから傾聴をやっているのだと思う。
その解放は話し手だけのものでなく傾聴者にも伝染するのだ。
そもそも傾聴者が覚醒と解放されているべきで、そうした傾聴者の「気」を話し手に伝染させるもののような感じはあるのだが、それでもなお、今、接している話し手が解放されていく感覚は傾聴者にも新たな解放として伝わってくる。
言葉にするとややこしいかもしれないが、傾聴が終わったときに、無償に「浮かれる感じ」があるのだ。なんなら踊りだしたくなる喜び。
もちろん全てがそうなるわけではない。
一旦覚醒までたどり着いたにもかかわらず、やはり自分を呪縛する話し手もいて、こうなると傾聴者のほうもかなりしんどくなる。覚醒にいたらずこの世的な愚痴のみのときもやはり疲労感がのこる。それでも聴き続けるのだが。
もし傾聴者のほうが覚醒・解放されていなければ、呪縛を根拠にしたアドバイスに走るのかもしれない。アドバイスとはおうおうにしてそうしたものだろう。

さて、傾聴の場では話すことで覚醒、泣き出し解放に繋がるとした。
書きながら思ったのだが、いわゆる世間でいう「キレる」というのも呪縛からの覚醒かもしれない。
みずからの裡に溜め込んだ怒りを抑える拘束具がキレ、自らの力を抑えられなくなる。
とはいえ、そのキレるは覚醒はしたものの解放に至るかどうか疑問である。
おそらくキレる場面での周辺の人間も呪縛が強く、むしろ一人の覚醒は責められることになるだろう。せっかくの覚醒はアダとなりさらに酷い呪縛で自らを拘束することになる。
傾聴といわゆる世間では何が違うのか?
拘束具を打ち破るエネルギーを無条件に受け止める者がいるかどうか?
傾聴の場合であれば傾聴者が受け止めることになる。
なぜなら、まさにそこを目指してやっているのだから。
つなり覚醒と解放を望んでいるのだ。

と、一傾聴者のボクは思っている。


(ここからはちょいと自分のためのメモ)

そうなのだ、傾聴での覚醒の表情として泣くことが多いと感じていたが、キレるというのもあるのかもしれない。
「キレる」であっても、泣くときと同じように全てを受け止めればいい。
話し手が突然キレても動揺することなく傾聴者としてまっすぐに受け止めれば。
どこにも「キレる」対象が見当たらない時、話し手は傾聴者にたいしキレるかもしれない。それが理不尽とかではなく、そうしたパターンとして傾聴者は受け止める。

傾聴での話し手はこの呪縛@装甲板・拘束具が強く深い場合が多いのだが、多かれ少なかれ誰しも自らに呪縛をかける。
これで苦しまずにすむのは、呪縛でうまく行っていると感じて納得している人か、呪縛がゆるく適当に流せる人。
ボクなんかの感覚だと、できれば呪縛を皆無にしたいのだが、そうした人のことを「つき抜けている」というのかもしれない、ボクはなかなか突き抜けることができないでいる、^^;笑


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