「ネオ・サピエンス」というこれまでとは違う回避型人類??からの傾聴

うぎゃぁ、ひゃぁ、なんだ、げほごほ、え~んえ~ん、グスン、、、こ、こ、これは何だ、なんて言えばいいんだ?
岡田尊師、いやもとい岡田尊司という医学博士の「ネオサピエンス−回避型人類の登場」という本の読後感想である。読後感想が、うぎゃぁ、ひやぁ…(以下略)ではお話にならないので、もう少しメモしておこう。

実はちょっと何かが変だと思っていたんだよね。
病院の待合で若い母親をそれとはなしに見ていたことがある。
ベビーカーのなかの赤ん坊は母親にむかい何かをオギャァと話しかけているようだったが、母親はガン無視してスマホとにらめっこをしていた。
母親の横には2歳?3歳?の子どもが座っている。
その子どももスマホとにらめっこをして集中していた。
なんだかとても嫌な感じでボクは表情のない母子を見つめていた。
そういえば、ずっと以前、よく泣く自分の子どもに手を焼いている頃、泣きわめく子どもにスマホのゲームを与えれば静かになる、ってのを聞いたときと同じような違和感。
このなんだか解らない嫌な感じをこの本に解説されたような気がする。この本に書かれていることがホントか嘘かは保留するけどね。

ネアンデルタールが滅んでホモサピエンスが繁栄した要素のひとつに「助け合い」がある。
多くの他者と助け合うことで生き抜き繁栄もした。
そのベースになるのが「愛着」という親子の接触による人と人とが繋がるシステムがあるらしい。
それが共感をつくり、仲間意識が芽生え、絆やら縁やらさらには愛国心wやらを育てやってきた。
いいことばかりではなく、面倒な人間関係もあるのだけど、とにかく共感で繋がることが前提だった。
それでサピエンスは生き残ったわけだし、繁栄もしてきたのだろう。

でも、そんな人間関係が煩わしいと感じて、回避しても生きていけるようにもなった。
むしろ絆やら恩やら情やら縁やら、不合理でわけのわからないものは避けたいという人も増えた。都会的である。
まぁ、ボクなんかも実はそういうところは大いにあるのだけどね。
性格や意識なんかで、そうなんだけどね、と言っているうちはまだ従来の人間なんだけど、それが2代3代と続くとDNAごとそっちに適した人間が生まれる(と、本では言われた)。
生まれながらにして、親の愛着を求めない、物に向うことで安心する回避型人間。
孤独がここちよく、絆や情などの空気感よりも定型化されたルールを重視したい。むしろ絆や縁で結びついた集団を嫌悪して回避する。
濃厚な人間関係やセックスなどしなくても、それで精子の数が異様に減ってしまっても出産科学医療がそれを担保する時代で問題ない。
そんなこんなで死が悲しくなく、また自殺衝動もある。
それが回避型人類。

これまでの「共感型」だった従来人間の前提は崩壊する。
野口晴哉がいった「人はオギャーとしか言っていない」というのも、他者と関係をもつためという前提で、赤ん坊のオギャーと泣き自分がここに存在すると主張することと、大人が何かを言うことは同じだ、としたことも共感が前提だった。
アドラーが言った、「問題行動」の5段階、第一段階「称賛の欲求」では愛着を得るために褒められるようとすう、第二段階「注意の喚起」は愛着を得るためにイタズラをする。第三段階「権力争い」でも愛着を得るために親に不服従になるから、第四段階「復讐」でも愛着を得るために親が嫌がることをする。全部「愛着を得るため」が前提の問題行動だった・・・、おっと第五段階で言及しているのか?
第五段階「無能の証明」では、どうしても承認(愛着)が得られないときに、自分は無能だとして「何もしない」となる。それが常態化した後の人間として回避型のネオサピエンスとしているのか。

本にはこんなことが書かれていたと助産師であるツレアイと話をしてみた。
するとツレアイは現実の仕事場での話をする。
出産後、退院まで育児指導もするのだけど、どう指導すべきか分かりにくい母親がちょくちょくいる、と言う。
こんな話だ。
赤ん坊が泣くというので病室に呼ばれる。
そうしたときは、(授乳や排泄でないときは)赤ん坊を抱いてあやしてあげてくださいね、と当たり前のことのようだけど丁寧に指導する。実際に赤ん坊を抱いてあやしてみせて落ち着かせる様子もみせる。
で、母親はあやそうとするかというとしないそうなのだ?
何度でも同じことで呼ばれる。でもやらない。
どうも納得しないということでなく、できないようである。
核家族でそうした風景を見てきてないということもあるのかもしれない。
でも、こうした本を読んでしまうと、あれ?まさか? と考えさせられてしまう。
それでも、まだ「泣いている」ことに反応して助けを求めるのは、本のような変化ではないかもしれない。
そんななか「抱かれてあやされることを嫌がる」赤ん坊がいる、ということも話してくれた。
たまたまの一回だけでなく、いつも嫌がるらしい。
ツレアイは、これは理由が解らない、と言ったが、ついにDNAからの回避型という新人類の誕生か?というのは本に引っ張られすぎで安直すぎるかもしれないな。

でも、そういえばそんな感じの人もいるかなぁ、、、
本では新しい回避型人間の増加で、従来の共感型人間の立場が狭くなるというようなことが書かれていたが、そこはまた別の問題で安易に本には同意できない。
しかし、いまのとこのワタシの一つのテーマである「傾聴」をどうしても考えてしまう。
「傾聴」について思索したり、実践したりするのは従来の共感型の話し手であることが前提だった。多分。
こうした回避型の人が話し手になることも、たとえば匿名の電話傾聴なんかだとあり得るかもしれない。
そうしたときに、積み重ねてきた従来の傾聴がなりたつのかどうか、わからないところである。解らないということだけは覚えておこうと思う。


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