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非常に残念な喩え

 本を読むことも、何かを書くことも好きだ。
 その両方の「好き」が組み合わさり、本の紹介記事やこういったエッセイを書いている。


 本を読むことで何かを学びたい、新しい発見をしたいという気持ちが無いわけではない。
 しかし、それよりも、本を読んでいると落ち着くし、何より本そのものが大変面白いのだ。

 漫才やコントを見るのも好きだが、それらとは異なる、「活字」による面白さが本にはあり、それが好きなのだ。


 書くことの良さは、書きながら頭の中のモヤモヤを活字にしていくことで輪郭が浮かび上がり、その正体をつかむことができ、書いているうちに気持ちが穏やかになるというところがある。

 あとは単純に、目標や記録を残すことや日記を書くことが昔から好きだったというところもある。

 いずれにせよ、本を読むことも、何かを書くことも私の趣味であり、皆様にも胸を張ってオススメしたい。


 私は往復3時間以上の長距離通勤をはじめてから、この2つの趣味がさらに加速していった。
 電車の中で音楽を聴いたり、動画をみたり、ゲームしたりすることもあるが、2つのうちのどちらかをしているのが大半である。

 本は年間で100冊以上は読むようになったし、(冊数マウントを取りたいわけではない)時間があれば、自分の考えや思い浮かんだことをひたすら書くようになった。

 そして、最近は特に【書く⇒読書】が通勤中の最強の過ごし方なのではないかと思うようになった。

 まず、どちらも非常に没頭しやすいという特徴があるため、長時間の通勤があっという間に感じられる。

 もちろん「書く」といっても、動作自体は「小さいスマホの画面上でひたすら文字を打ち込む作業」なので、のめり込み過ぎると目が疲れるし、デジタル画面を長時間見過ぎた時に感じる、特有の「デジタル疲れ」もあるので注意は必要だ。

 しかし、そこで読書(特に紙の本)をすることで、デジタルとアナログのちょうど良いバランスで疲れにくくなるという感覚がある。


 また、曲がりなりにも、『読書大学』という名で本紹介のnoteを書いたり、エッセイを書いたり、本を執筆するようになってから、読書をするときも、単に内容を追うのではなく、本全体の構造、文章の表現方法、言葉選びなどにも注目するようになった。

 そう、読書が書くことの勉強にもなっている。

 そして、何かの本で「本を読むことが辛くなったり、集中できなくなったときは、それを言葉にして書くのが良い」ということも読んだことがある。
 このように、読書と書くことは結構相性が良く、補完関係にある。


 私も特に感じるのが、

「読書を通じて本に書かれている「活字」を栄養として摂取し、頭の中で思考の流れに乗りながら吸収され、書くことをとおして言葉や文章となり、消化されていく」という「活字のサイクル」

 である………






 私はここまで書いて思った。

 この喩えだと私が書いた言葉や文章が「う◯こ」みたいだな、と。
 ここで待っているので、上に戻り、もう一度先ほどの喩えをゆっくり読んでみてほしい。(背景付き太字部分)


 いかがだっただろうか。
 以下のように置き換えると、「活字」のサイクルというか、もはや「食べ物の消化吸収」のサイクルになる。

読書 ⇒ 食べる行為
活字 ⇒ 食べ物
思考の流れに乗りながら〜 ⇒ 胃や腸で吸収される様子(脳腸相関なんて言葉もあるし)
書くこと ⇒ 排泄

 まるで、私が書いた文章が「う◯こ」になってしまうではないだろうか。


 ………の直前まで、この記事を閉じることなく、読み進めていただいた読者の方をこんな汚い話に付き合わせてしまい申し訳ない。

 そして、これは決して書くことを馬鹿にするとかそういったことではないので誤解のないようにしてほしい。書くことが好きなのは紛れもない事実だ。

 私の喩えが非常に残念なだけであり、私の頭では他の喩えが思い浮かばなかったのだ。他に良い喩えがあればぜひ教えてほしい。募集中だ。


 謝りついでに白状すると、この喩えを書きたいがために40分近くかけてこのエッセイを書いた。


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普段は本紹介の記事を書いていますが、たまにエッセイも書きます。


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