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コーヒーブレイク22回目:国家公務員(キャリア官僚)のお仕事Part9(経産省の紹介)

前回の反響が多かったので、今回も経産省の続きを紹介します。

私が、前回のPart8で説明した内容が、わかりやすく示されている資料(METI Career Guide)が公表されていました。2024年6月の最新の資料ですので、ご覧下さい。

https://www.meti.go.jp/information/recruit/career/pdf/METICAREERGUIDE2024.6ver.pdf


質問への回答(Q and A)

それでは、まず、個別にいただいた質問内容にお答えします。

Q:「前回の経済産業省職員の賃金モデル、の資料で役職の名称が非常にわかりにくいです。他の省庁とも異なる気がしますが、詳しく教えて下さい

A:経産省の役職は、キャリア(総合職)採用の場合、

係員(1~2年目)→係長(2~4年目)→(若手orジュニア)課長補佐(5~10年目)→(シニア)課長補佐(10~15年目)→管理職=室長・企画官(16~18年目)→管理職=課長(18~22年目)→管理職=部長・審議官(22~28年目)→管理職=局長(30年目~)

という形です。

経産省で言えば、通商政策局の階層(ヒエラルキー)は、以下の図の通りです。

管理職級では、省庁によって呼称がほとんど一緒です。

外務省であれば、No2は外務審議官(省庁名+審議官が各省のNo2を意味し、例えば国交省だと国土交通審議官となるが、財務省は財務官がNo2)

ちなみに、外務省は担当課の筆頭の課長補佐を、首席と呼びます。


Q:「霞ヶ関では、省庁間で争いとか、どこの省庁が上とかありますか?

A:「なかなか答えにくい質問です 笑 省庁間の争いはもちろんあります。例えば、国交省と警察庁は道路交通法で揉めます。環境省と経産省は地球温暖化対策や省エネで揉めます。財務省と外務省と経産省は経済外交の方針の違いで揉めます。これは、日本だけのみならず、他の国でも見られる現象なので仕方ない面もあります。

省庁のランキングについては、元々5大省庁が人気でした。その点は、Part1をご覧下さい。しかし、最近は、総理秘書官を出している省庁は、財務省、外務省、経産省、防衛省、警察庁ですので、5大省庁だった自治省に比べて、防衛省の役割が向上していることがわかります。以下のPart2をご覧下さい!」

「なお、経産省は、安倍総理→岸田総理と続けて、政務秘書官(2人のうち1人)が経産省出身者であるため、官邸を牛耳っているなど噂されたりしています」


経産省の権力基盤(官邸との関係)

それでは、経産省の官邸への入り込み具合に関して
、少し掘り下げて、経産省がどのように安部政権に入り込んでいったのか?、を詳しく説明します。 以下の書籍から引用します。

安倍は経済産業省とは浅からぬ縁がある。祖父、岸信介が経産省の前身である農商務省の官僚だったからだ。岸は東條英機内閣で商工相となり、軍需物資を調達する経済統制を指揮した。

甘利は入閣要請があったことをおくびにも出さず、翌日から体制作りに着手した。第一次安部政権の経済産業相だったとき、自らを支えた経産省製造産業局長の菅原郁郎=のちの経産事務次官=を呼び出した

「これから大急ぎで経済再生本部の設計をしなくちゃいけない。経産省、内閣府、財務省の三府省から有能な人材を集めてくれ」

菅原は甘利の議員会館の部屋に入り浸り、人集めに奔走する。だが、数日すると、菅原には疑問が湧いてきた。組閣が済んでいないのに、着々と体制ができあがっていくからだ。

「もしかして、この本部で指揮をとるのは先生ですか」。菅原が尋ねると、甘利は「そうだ。絶対に外には言うなよ」と笑った。

2人がつくった日本経済再生本部はこうだ。マクロ経済政策の基本設計を担う経済財政諮問会議と成長戦略をつくる産業競争力会議を置く。安倍本部長、甘利副本部長の下、菅原が事務局長代理となって各省庁から集めた役人を束ねる経産省主導の政策決定の仕組みがつくられた

一方、首相官邸も経産省出身者で固められた。安倍は選挙前、資源エネルギー庁次長の今井尚哉に、筆頭の首相秘書官に就くように求めた

今井は、一時政権でも秘書官として安倍に仕えていた。叔父に元通産事務次官の今井善衛や、元経団連会長の今井敬を持つ。通産エリートの血筋であった。

ちなみに、今井善衛は繊維局長や通商局長として、日米繊維交渉を担当したこともあり、「国際派」「通商派」などと呼ばれていた。岸信介の系譜を引き継ぐ「統制派」のドン、佐橋滋と、次官レースを激しく争っていた人物だ。

経産省と産業政策の歴史

経産省と産業政策の歴史の解説がありますので、引用します。産業政策とは、政府が産業を特定して、集中的に支援することで、特定産業の競争力を向上する政策です!

戦後、発足した通商産業省は、戦前の商工省や軍需省を母体としてつくられた。通商省は1961年に「産業構造調査会(のちの産業構造審議官)」を立ち上げる。日本の産業界のトップが集められ、日本の産業のあり方、すなわち「産業政策」について提言を行った。

こうした「産業政策」は、1983年の特定産業構造改善臨時措置法(産構法)などの法律により、特定の業界を底上げすることを目的としていた。通産省は成文化されない形の「行政指導」という形で競争制限的な措置を行い、産業界を政府の思い描く方向へと導いた。

だが、日本経済が世界に占める割合が大きくなるにつれ、海外から大きな批判を浴びるようになる。特に、対日貿易赤字を問題視した米国は、80年代前半から、日本政府の特定産業に対する「産業政策」が、外国企業にとっての参入障壁となり、不公正な市場を生み出しているという主張を展開した。

「産業政策」が否定されるようになるのは、1990年代後半になってから、である。橋本首相が経済構造改革の旗を振るようになり、特定に産業の育成や調整に政府が関わるよりも、規制改革など制度的環境を整備することに徹するべきだ、という考え方が主流になった。さらに、小泉政権になり、竹中平蔵が経済財政相になってからは、経産省の凋落が顕著となった。経済政策の決定の舞台が内閣府に設置された経済財政諮問会議に移ったためだ。小泉や竹中は、民間活動への政府の介入を極力減らす政策を推し進めた。

第二次安倍政権があえて「ターゲティングポリシー」という言葉を使ったことは「産業政策の復活」を象徴している。経産省の官僚を、首相官邸や内閣府に集める形で、その実現を図った。

その代表が、安倍主張の筆頭秘書官で、経産省出身の今井尚哉である。元通産事務次官の今井善衛や、元経団連会長の今井敬を叔父に持つ。今井は秘書官の立場を最大限活用して、経済政策全般に大きな影響を与えている。

さらに、経産省出身で、内閣府政策統括官などをつとめた新原浩朗も、経産省と協力しながら、官製春闘や働き方改革、幼児教育の無償化などを推し進めた。18年8月には、「産業構造審議会」を担当し、産業政策の要である経産省の経済産業政策局長に就いた。

官邸主導で「産業政策」が復活し、「1940年体制」がよみがえった

これを書籍では、以下のマトリクスで図示しています。

もともと、左下は、橋本政権、小泉政権と続く、小さな政府を指向して、できる限り、政府が民間活動や市場に介入しないものでした。

橋本政権では、省庁再編が行われ、1府22省庁が、1府12省庁となりスリムになりました。また、政府の歳出削減にも取り組みました。

小泉政権では、郵政民政化や銀行の不良債権処理を行いました。

しかし、安倍政権では、第一次は小さな政府を継承していましたが、第二次では、大きな政府方針に転換しました。

岸田政権(大きな政府)の評価

現在、岸田政権も、第二次安倍政権の大きな政府路線を引き継いでいます。

みなさま、具体的にどのような政策が、大きな政策(=財政拡張政策、統制経済)に当たるか、考えてみて下さい。

すぐに思い当たるものがあると思います!!!

続きは、次回解説したいと思います♪

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