どん底でも『百年と一日』は読めた

人生のどん底とも言えそうなくらいトラブル続きだったこの夏に、詩集と歌集は読めたという話を直近のエントリーでしました。それともう一つ、ピンポイントである短編集だけは読めた。それか柴崎友香さんの『百年と一日』(ちくま文庫、2024年3月10日初版発行)でした。

『百年と一日』は、時間を描いた小説である。それが特殊な点だと思います。人物(主人公)ではなく、あるいは場所(組織や共同体)ではなく、時間を描いている。

人物や場所を描く物語は、時間から不要なものを捨て去っていく。そうやって川を泳ぐ魚の存在、その軌跡を際立たせるのが物語だとすれば、『百年と一日』は川そのもののような小説です。

たとえばこんなシーンが胸に残る。

 子供を土手に連れていくときは犬に気をつけなければいけないな、役所にも連絡をしたほうがいいかもしれない。そんなことを思いながら、彼はベランダで煙草を一本吸い、それから、部屋に入って寝転んでみた。新しい畳のにおいがした。
 その百年前、土手はもっと低かった。三、四年に一度は川が溢れ、田んぼの稲は水に浸かった。村の人たちは、何度も役場へ陳情に行ったが、長年改善されることはなかった。
 もっと前、そこは野原と雑木林だった。

『百年と一日』p108

これは『二階の窓から土手が眺められた川は台風の影響で増水して決壊しそうになったが、その家ができたころにはあたりは田畑しかなく、もっと昔には人間も来なかった』という作品の一節(このタイトルもめちゃくちゃ独特ですね)。登場人物が土手について思いを馳せる。そして唐突に100年前に時間が遡る。そして、もっと過去にも。

あれこれ思いあぐねる土手は、100年前、もっと低かった。なかったわけではなかった。何なら村人は、現代を生きる「彼」と同じように、「役場」への陳情をしていた。変わらない人間の姿がそこにある。

でももっと時計を巻き戻せば、そんな人間の姿もない。そもそも土手すらない。

無情なる時間。それを無情のまま。川の水をペットボトルに詰めることなく、手をひしゃくにして読者の前に運んでくれているのが『百年と一日』です。

時を進めるやり方も取られていて、それにも独特の味わいがある。

 藤の咲く時期は短い。
 通りかかって、もうすぐ咲きそうと思っていたら、突然紫色のカーテンに出くわす。今は通勤途中だから、土曜日に写真を撮りに来よう、と思っていると、もう色褪せている。そして葉も落ちた冬の間は、そこに美しい藤があることも忘れてしまう。
 あるとき、紫色だった藤の花が、白くなった。真っ白い花の房がいくつも垂れ下がって、遠くからでもよく見えた。こんなところにこんな花があったかな、と通りかかった人たちは思った。
 次の五月、その角にたばこ屋だった建物も藤もなかった。

『百年と一日』p28

美しい藤の花。それは週末を待つ間に枯れてしまう。でも人間は、「美しい」ことさえも、次の年には忘れてしまうし、なんならその美しさそのものが、簡単に失われてしまう。

人生のどん底に『百年と一日』が読めるのは、今この苦しさも悠久とした時間の流れのほんの一コマにすぎないことを感じさせてくれるから。ほんとうに字句通り、良くも悪くも、時と流れの中では人間の幸福も不幸もちっぽけであると、感じさせてくれるからなんだと思います。

こんな小説読んだことないし、どうしてこんな小説が書けるのか不思議でならない。人間が時間を手づかみできるなんて。

時薬という言葉もあります。『百年と一日』は、薬草を浮かべた白湯のような、そんな小説でした。

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