どん底でも『百年と一日』は読めた
人生のどん底とも言えそうなくらいトラブル続きだったこの夏に、詩集と歌集は読めたという話を直近のエントリーでしました。それともう一つ、ピンポイントである短編集だけは読めた。それか柴崎友香さんの『百年と一日』(ちくま文庫、2024年3月10日初版発行)でした。
『百年と一日』は、時間を描いた小説である。それが特殊な点だと思います。人物(主人公)ではなく、あるいは場所(組織や共同体)ではなく、時間を描いている。
人物や場所を描く物語は、時間から不要なものを捨て去っていく。そうやって川を泳ぐ魚の存在、その軌跡を際立たせるのが物語だとすれば、『百年と一日』は川そのもののような小説です。
たとえばこんなシーンが胸に残る。
これは『二階の窓から土手が眺められた川は台風の影響で増水して決壊しそうになったが、その家ができたころにはあたりは田畑しかなく、もっと昔には人間も来なかった』という作品の一節(このタイトルもめちゃくちゃ独特ですね)。登場人物が土手について思いを馳せる。そして唐突に100年前に時間が遡る。そして、もっと過去にも。
あれこれ思いあぐねる土手は、100年前、もっと低かった。なかったわけではなかった。何なら村人は、現代を生きる「彼」と同じように、「役場」への陳情をしていた。変わらない人間の姿がそこにある。
でももっと時計を巻き戻せば、そんな人間の姿もない。そもそも土手すらない。
無情なる時間。それを無情のまま。川の水をペットボトルに詰めることなく、手をひしゃくにして読者の前に運んでくれているのが『百年と一日』です。
時を進めるやり方も取られていて、それにも独特の味わいがある。
美しい藤の花。それは週末を待つ間に枯れてしまう。でも人間は、「美しい」ことさえも、次の年には忘れてしまうし、なんならその美しさそのものが、簡単に失われてしまう。
人生のどん底に『百年と一日』が読めるのは、今この苦しさも悠久とした時間の流れのほんの一コマにすぎないことを感じさせてくれるから。ほんとうに字句通り、良くも悪くも、時と流れの中では人間の幸福も不幸もちっぽけであると、感じさせてくれるからなんだと思います。
こんな小説読んだことないし、どうしてこんな小説が書けるのか不思議でならない。人間が時間を手づかみできるなんて。
時薬という言葉もあります。『百年と一日』は、薬草を浮かべた白湯のような、そんな小説でした。
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