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コロナ後の世界を考えるための7つのキーワード(クーリエ・ジャポン編「新しい世界」より)

クーリエ・ジャポンに掲載された世界的な学者のインタビューをまとめなおした「新しい世界 世界の賢人16人が語る未来」が面白かったです。「サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリさんや、「実力も運のうち」が話題のマイケル・サンデルさんなどそうそうたるメンバー。インタビュー全て新型コロナウルス感染拡大後に行われていて、コロナによってもたされたもの、コロナ後を考えるために必要な考え方が詰まっている。キーワードを拾ってみました。(講談社現代新書、2021年1月10日初版)


ソリューショニズム

ベラルーシのジャーナリスト、エフゲニー・モロゾフさんが課題を指摘している。ソリューショニズムは日本語にするとすれば「解決主義」という感じになるか。ある物事を解決可能な手段を重視するイデオロギーで、平たく言えば「テクノロジー(IT)で物事を解決しようよ至上主義」になる。

エフゲニーさんは、ソリューショニズムが資本主義と深く結びついた考え方であるのに、政治的中立性を押し出す点を危ぶんでいる。

 ごく単純に言えば、「ほかの選択肢も時間も財源もないから、社会の傷にはデジタルの絆創膏を貼ることくらいしかできない」と考える思想だ。
 ソリューショニズムの信者は、テクノロジーを使えば、政治に首を突っ込まなくてもすむと考える人びとだ。「イデオロギーを超克した」政策を推進し、グローバル資本主義の車輪を回し続けることに精を出している。(p92)

この指摘にはハッとした。たしかにテクノロジーによる解決は党派性がない「当たり前」の政策として語られているけど、「テクノロジーを使う以外にこういう方法もあるけど、どちらを選びますか」と提示されたことなど記憶にない。

むしろわたしたちは、ソリューショニズム以外の方法を想像できにくくなっている。そしてその陰で、資本主義自体は無傷で温存されている。実際にはテクノロジーを使って私有財産制を抜本的に見直すことは可能かもしれないのに、そんな議論はどこにも見かけない。(その是非はもちろん別として)


スクリーン・ニューディール

ある種、ソリューショニズムの言い換え。ITを使った「非接触」の経済活動を推し進めることで、成長の起爆剤にする発想。こちらは環境問題に取り組むジャーナリスト、ナオミ・クラインさんが取り上げている。たとえば、コロナ下ではオンライン授業の活用が求められているが、仮に全ての授業をオンライン化した場合、それは本当に良いものなのかを問うている。

 ここで「スクリーン・ニューディール」に資金を注ぎ込んでも、生活の質を下げるようなやり方で問題を解決することにしかなりません。
 それよりも、なぜ学校の先生を大量に雇用しようとは思わないのでしょうか。クラスの生徒数を半分にして教員を2倍にしたり、屋外で教える方法を考えないのでしょうか。(p105)

これも頷いてしまった。ソリューショニズムの議論と同じで、機械を増やすのではなく人を増やすという手段もあるのに、私たちはなぜ本格的に議論しないのだろう。自分もまた、「それは無理だ」と思い込んでいたのは事実で、やはりソリューショニズムやスクリーン・ニューディールは根を張りつつある。

哲学者のスラヴォイ・ジジェクさんは、スクリーン・ニューディールは「自宅で働ける」階級とエッセンシャルワーカーの格差を助長するとも指摘している。たしかに、コロナ下で通販や宅配産業は伸びたけど、結局はそれを運ぶ人がリスクが詰め込まれることになった。安全で非接触な生活を送れない人に対する視線というのは忘れてはいけないだろうと感じた。


技術の主人にして所有者

トマ・ピケティさんを指導した経済学者のダニエル・コーエンさんは、デカルトの「人間は自然の主人にして所有者」という言葉をもじって、これからは「技術の主人にして所有者」になるべきだと語っている。これはソリューショニズムを回避するための発想だ。

技術の筆頭はテクノロジーだけれど、ダニエルさんはもう少し幅広い「アート」に対する取り組みが人生を豊かにすると提案している。

 私はピアノを弾けるようになるのは、人の魂を磨き、幸福につながることだと考えていますが、世間では、ピアノの練習をする時間があるなら学課の勉強をしろという発想になっているので、ほんとうに悲劇的だと感じています。(p124)

コロナ下でもそんなにストレスを感じていない人は、自分なりに楽しめる「技術」を持っているように思えてならない。それはピアノはもちろん、料理とか編み物とかもう少し日常的なことでも良い。自分はどんな技術を持ち、その主人として長い時間を共にできるかが、これからも鍵になるのかもしれない。


他人との関係を作る産業

また、ダニエルさんは非接触の時代に「他人との関係を作る産業」が興隆すると指摘していて、これはほとんど実現している。日本で友達や家族のレンタルサービスがあることが言及されていて、もしかしたらこの分野は日本での発展が国際的に見てもハイスピードで進むのかもしれない。


レジーム移行は予想できない

トマ・ピケティさんの指摘。いまや高福祉国家のスウェーデンは1911年段階では高所得者の投票権が多く設定されるなど、非常に資本主義的な体制だったらしい。この時スウェーデンが福祉国家になると予言しても誰も信じなかった、とピケティさん。それぐらい、社会のレジームの移行には実は可塑性がある。

全てをソリューショニズムにつなげてしまうのはこじつけ感もあるけれど、「絶対その方向に社会が進む」というのは結局は思い込みに過ぎない。もちろん確率的な問題はあるけれど、予想不可能性は常に心の隅に置いておきたい。


感覚遮断

フランスで戦時中のユダヤ人差別を経験した精神科医ボリス・シリュルニクさんは、コロナ下でストレスが溜まる理由は感覚遮断だと説明する。外界から切り離されると精神が不安定になる現象は潜水艦などでも確認され、他の動物の観察結果でも裏付けられているらしい。

面白いのは、感覚遮断は孤独とは異なるということ。

 感覚遮断は孤独とはまったく関係がありません。孤独はむしろありがたいものだったりします。社交のストレスから私たちを恢復させてくれますからね。社会での生活は、言ってみれば全力疾走の連続です。それにうんざりしたとき、孤独になれば、私たちは、ゆっくりとした時間の流れ、静けさ、安らぎの味わい方を思い出します。贅沢な経験です。(p223-224)

ある意味で、感覚遮断とは十分に孤独になれないことだとも言える。狭い室内に閉じ込められているステイホーム生活。本来なら感じられる贅沢な季節の変化が、どこまでも無機質に思えた経験は確かにあった。

今は感覚遮断されているから、つらいのは当たり前。こう思えるだけでも少し、気持ちは軽くなる。


シンボルの終わり?

エマニュエル・トッドさんの指摘。

 「未来はシンボルを操作できる者たちのものである」と言ったのは、90年代の第一次クリントン政権で労働長官を務めたロバート・ライシュです。
 しかし、シンボルを操作できても、新型コロナウイルス感染症の前では何の役にも立ちません。(p35)

コロナを止めるのはおそらくワクチンで、思想ではなさそうだ。一方で私たちの社会は「コロナは風邪だ」と思い込みたい誘惑から完全に逃れることは難しくて、やはりシンボルは根強いものだと感じてしまう。

新しいシンボルをついつい求めてしまう。それがソリューショニズム興隆の背景にあるのかもしれない。でも、新しいシンボルがなくてもひとまずの社会を維持していくこと。とりあえずそれで良いと割り切ることも大事なんだろうな。


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