見出し画像

なんでもないことのくりかえしー読書感想「46歳で父になった社会学者」

育児への怖さを少し和らげてくれました。工藤保則さん「46歳で父になった社会学者」。世間から見れば遅咲きかもしれない父親としての日々を、飾らずに語る様子が微笑ましい。育児を切り口にした社会批判や、社会理論を敷衍した育児論ではなく、社会学者がただただ家庭に向き合っていく。育児は「なんでもないことのくりかえし」がベース。だけどそれが、どこまでも愛おしいことを教えてくれました。(ミシマ社、2021年3月22日初版)


小さな発見

工藤さんと妻、46歳の時に生まれた長男じゅんくんが7歳くらいになるまでの日常が綴られる。各章の小見出しは「妊娠」「変化」「誕生」「料理」など、一見すると特徴のない出来事が並べられている。

工藤さんはその中で小さな発見をするのが上手い。たとえば歯ブラシ。小さい子は全然歯ブラシをやりたがらないらしい。そこで工藤さん達は、バイキンマンの存在をうまく活用することを思いつく。

 なかなか言うことを聞いてくれないときは、「あっ、お口の中にバイキンマンがいたよ」「ドキンちゃんもいたよ」「キャーッ、じゅんくんの歯をガリガリしようとしているよ」と脅かす。バイキンマンに、どれだけ助けられたことだろう。(p103)

世の中の保護者は当たり前のようにこんな試行錯誤をやっているのだろう。だから改めて「バイキンマンを口に出すのが良い」などと助言を出版する人も少ないのではないか。工藤さんはあえてなのか、気にせずなのか、見つけた驚きをそのままに言葉にしてくれている。


織り交ぜられる社会学的な視点

時折、社会学者としての視点が織り交ぜられる。それもまた良い。

工藤さん夫妻は運転免許を持っていない。そのため動物園や水族館に行くときは公共交通機関を使う。動物園では子ども連れでものびのびできるのに、電車やバスの中では小さい子は歓迎されていないように思える。この差を、政治学者の齋藤純一さんが示した「公共性の三つの意味」で考えていく。

(中略)国家に関係する公的な(official)ものという意味、特定の誰かにではなく、すべての人びとに関係する共通のもの(common)という意味、誰に対しても開かれている(open)という意味である。(中略)
 動物園や公園は、openな空間である。誰かを排除したり制限したりはせず、基本的に誰でも受け入れようとする。しかしopenな空間に向かうためには、公共交通機関を利用しなければならない。そこはcommonな空間である(p153-154)

openな空間に辿り着くまでにcommonな公共交通機関を利用する必要がある。commonなものは必ずしも「開かれていない」から、規範意識を遵守できない子どもはある種「排除」されてしまう。「公共交通機関だというのにどうしてこうも居心地が悪いのか」という子連れ家庭の疑問がこうして氷解する。

工藤さんは社会学的な知識を持って育児を見てはいない。無理矢理持ち込んでいる様子が全くないのだ。逆に、育児をする中での疑問に、ふっと普段の社会学的な知見から差し込んでいる。その順番が無理なく、読者にとっても心地いい。

学ぶことは、そうした日差しを得られることなのかもしれない。全てを照らす懐中電灯ではなくても、ときどき、僥倖のように日常をあたためてくれる。学ぶことへの淡い期待感も本書は抱かせてくれる。


なんでもないことのくりかえし

本書がなぜ素敵かといえば、なんでもないことが書かれているからだ。なんでもないことを、なんでもないままに書いているから優しい。私たちの日常はたいていがなんでもないわけで、工藤さんの語り口はそれを肯定してくれるものでもある。

その慈しみが凝縮した話が、第二章の「洗濯」だった。子どもとの暮らしは、いろんなものが散らかり、それを片付けることの繰り返しだそうだ。工藤さんはそれが心地いい。なぜかを考えるときに、詩人・天野忠さんのエッセイを引用する。

 詩の中に、何でもなさ、を取り扱うことは大変むつかしい。何故なら、何でもなさは人の関心を呼ばないし、人を「オヤ」と思わせないし、従ってホンにすれば誰も読まないからである。(中略)ごく僅かの、天の邪鬼的な存在があって、その何でもなさを嗜好とする向きもあるのである。その何でもなさを、まるで己の生活という家の大黒柱のようにさえ思い込んで、丁寧大事にしている人も居ることは居るのである。(『草のそよぎ』編集工房ノア、一九九六年)(p87-88)

工藤さんは何でもなさを大黒柱のように抱え込むという一文が、自分の気持ちを代弁してくれていると語る。そしてこう続ける。

 家事には目に見える進歩や発展は少ないかもしれないが、生活のもっとも基本的な部分をかたちづくっている。それは私に、なんでもないことのくりかえしが持つ強さを教えてくれる。家族との生活は、進歩や発展とは別の営みである。(p88)

なんでもないことのくりかえしは、つよい。この言葉自体が力強く、読者の胸に残る。それは一つの大黒柱のような確かさだ。

進歩や発展が、これほど声高に叫ばれる世の中もないのではないか。進歩できない人間が脱落して当然とすら、思わされてしまう。でも、そんな急速な潮流とは別の営みがあっていいし、実際にある。工藤さんはそれを教えてくれた。

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,766件

万が一いただけたサポートは、本や本屋さんの収益に回るように活用したいと思います。