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出口のない場所での生き方ー読書感想#22「漂流」(吉村昭さん)

吉村昭さんの小説「漂流」に引き込まれました。江戸時代、難破して無人島に打ち上げられた水夫の物語。元の世界に戻れない絶望とともにどう生きるかを、吉村さんはレポートのように冷静に記録していく。主人公・長平の送る日々は、出口のない場所での生き方。それはどこかで、現実へのヒントにもなっていく。


作業が命をつなぐ

物語は実話に基づいています。現在の高知県の水夫が、無人島で10年余り生き延び、ある方法で生還した本当の話がベース。また、吉村さんは序文で、第二次世界大戦が集結したと知らずに密林で生存を続けた日本兵にもインスパイアされたことを綴っている。

長平ら4人を乗せた船は、流れ流され、太平洋の孤島にたどり着く。そこは火山島で、樹木や川、湖も見つからない。当然、食いつなぐための果物、野菜はない。かろうじて、海岸沿いで見つかる貝、びっくりするぐらい大きな海鳥の肉を食べて生き延びていく。当然、火を起こすことはできないので、生食です。

船は波に破壊され、島を出ていく方法はない。沖合に船影は見当たらない。迎えが来ることも、出ていくこともできない空間。

そんな中で、心の支えになったものは何か?それは「作業」でした。長平は、ある日、鳥の肉を干物にすることを思い立つ。あるいは、鳥の卵。この殻を捨てずに並べて、雨水を溜める貯水槽にすることを思いつく。そうした家事ならぬ島事に没頭することが、不思議と長平らの心を穏やかにした。

 その作業は、長平たちの生活に好ましい影響をあたえた。一つの仕事を得たことで生活に張りができ、また来年一年飢えもせずに過ごせることに精神的な安らぎを感じていた。(p176)

作業は長平らと生活をつなぐ接着剤の役割を果たしている。生きるという漠然としたものが、作業によって具体的な営みに変わる。

また干物や卵貯水槽は未来を可視化してくれた。それらを作ることは未来に備えること。そして可視化された未来は、そこに向かっていこうとする自分の意志と強さをフィードバックしてくれてもいる。作業をすることが「自分を大切にすること」へつながっているんだと思います。


未来への暗闘の再解釈

もうひとつ、大好きなシーンがあります。長平はあるとき、島の巨大海鳥(それは「アホウドリ」であると後に吉村さんによる解説が挿入されます)の脚につかまれば、鳥と共に島の外へ羽ばたいていけるのではないか、と思い立ちます。しかし、これは失敗する。大人の人間をぶら下げて海を渡れるほどこの鳥はタフではなかった。長平は「愚かしい試み」だと自分を責めました。

しかし、(ネタバレを避けるため曖昧すぎますが)のちの展開で長平はこの脱出作戦を思い出す。そして、この愚作な失敗からエネルギーをもらう。

 かれは、あほう鳥の脚に体をむすびつけて鳥とともに島をはなれたいと願ったことを思い起こした。それは、なんの効果も期待できぬ愚かしい試みであったが、積極的に島をぬけ出すことに力を傾ける必要はある、と自らに言いきかせた。(p388)

鳥と一緒に脱出作戦は、故郷に戻ろうとした積極的行為だった。現状を変え、より良い未来を選び取ろうとする暗闘だった。「その意気を失ってはいけない」と奮起するのです。このとき長平は、「愚かしい行為」を「希望の発露」として再解釈している。そして種火にして奮起している。

これは裏返すと、どんなに愚かしい行為も、未来において再解釈が可能であることを示している。さらに言えば、行為がなければ、再解釈は起こらない。もしも愚かしい行為だからやめておこうと立ち止まれば、未来の長平は再び、島を抜け出すことなど無理だと諦めていたかもしれない。

作業で命をつなぎ、生活を営み、ときに愚かしくても、意味が薄くても、未来へ向けて手を伸ばす。その行為は往々にして失敗に終わるし、恥ずかしいかもしれない。けど、気付かないうちに芽を出した草花のように、未来において自分の心を助けてくれるかもしれない。そんなことを感じさせてくれます。

吉村さんは長平の絶望、暗闘、希望を、決して仰々しくは語らない。プレーンな文体で淡々と書いていくのだけど、だからこそ、輪郭は際立つ。ノンフィクションの方が好きだと言う方も、物語と人間模様に耽溺したい方も、いずれも楽しめる作品だと思います。(新潮文庫、1980年11月25日初版)


次におすすめの本は

アンディ・ウィアーさん「火星の人」(ハヤカワ文庫)です。「漂流」が無人島サバイバル小説なら、本作は火星サバイバル小説。火星に取り残された宇宙飛行士が、案外明るく生き延びる様子を描きます。ユーモラスで、笑えて、でも感動もできる物語です。


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