私が去った後もどうか生きてーミニ読書感想『きのうのオレンジ』(藤岡陽子さん)
藤岡陽子さんの小説『きのうのオレンジ』(集英社文庫、2023年8月30日初版)を読んで、目に涙が溢れました。電車内で読んではいけない。人目を憚らず、泣いてしまいそうになるからです。
本書がこれほど感動的なのは、逆説的に、「感動を誘わない」からです。30歳を過ぎたばかりの若さで、重い病を宣告される主人公。そこから物語は静かに展開して、期待するような救いはありません。かといって過酷な闘病記というわけでもない。看護師として働く著者が、現実に見つめてきたであろう生と死が、淡々と描かれる。
重い病は人から希望を奪う。こんな目に遭って、私の人生はなんだったのか?そんなやるせない問いに、向かい合う土台となってくれる物語です。
致死性の病を宣告された主人公に心を重ねると、まず泣けてくる。本書ではいきなりそのシーンがやってきます。きっと現実の病の発見も、こんな唐突さなんだろうな、と思わされます。この「フリ」のなさも、本書の特徴。泣かせにかかるなら、宣告の前に落差をつけようものです。
もしも自分が、遠くない時期にこの世を去ったら。妻ら、家族はどうなるのか。どう生きていけるのか。主人公は独り身ですが、だからこそ、自分の人生は何だったのか、突き付けられる。
それに答えは出ないまま、物語後半で迎えるこんなシーンが胸に残りました。実家の岡山。祖母の家を久しぶりに訪れ、亡き祖父が残した垣根に目をやる。そこで主人公はこう語ります。
これからも生きていく家族を守るために、残された時間を使った。旅立つものから、残されるものへのバトン。
これは、主人公の弟で、主人公にとっては「残す者」、あるいは「病に冒されていない者」の次のような問いに呼応します。
著者はもちろん、こうした最期の思い出づくりを否定しているわけではないはずです。あくまで対比として、温泉旅行と竹垣がある。そこには、残された者への思いの投入があると思います。
実際、時を経て、自らも病を得た主人公(竹垣を残した祖父からすれば、孫)が、祖父の思いに気付く。「あなたを守りたい」「守ってくれ」。あるいはもっと根源的に、「生きてくれ」かもしれません。私が去った後も、どうか生きて。
竹垣という存在が、そうしたメッセージを抱え、触れるたびに発散するのです。祖父が家族を愛したことが、その思いが形を成している。
ここで、本書のタイトルに思いを馳せました。なぜ、『きのうのオレンジ』なのだろうか。なぜ、明日ではなく、未来ではなく、きのうという過去なんだろうか。
亡くなった人は、過去にしかいられない。そこで歩みを止めるほかない。だけど、その人が残した熱は、そこに残り続けて未来を照らす。優しいオレンジ色に、ほのかに。
たとえ病や事故で唐突に人生が終わるとしても、生きることには意味がある。大切な価値がある。そのことを、本書は教えてくれる。誠実に、静かに。だから涙が止まらないのだと思います。
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