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話し続けよう聴き続けようーミニ読書感想『〈公正〉を乗りこなす』(朱喜哲さん)

哲学者・朱喜哲さんの『〈公正〉を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス、2023年9月10日初版発行)が学びになりました。本棚に置いて、じっくり学びを噛み締めたくなる一冊。「正義の反対は別の正義」とか「それってあなたの意見ですよね」のように、「会話」を打ち切る常套句。こうしたフレーズを避けて、公正や正義といった概念をうまく「乗りこなし」つつ、会話を続ける、そして聴き続ける姿勢を養うためのガイドブックでした。


正義や公正のように、固くて、なんとなく使いにくさを感じる言葉。これをうまく乗りこなすテクニックの要諦は、「区別する」「切り離す」こと。著者の切り離し方でなるほどなーと思ったのは、ロールズの考え方を使った「正義」と「善(道徳)」の切り離しでした。日本の初等教育では、まさに正義が道徳の一形態として語られ、「道徳心(内心)から正義が生じる」として説明される。それは、正義は心掛けの問題、という構図に押し込めるものです。

どういうわけか小学校の道徳教科では「公正・公平」を個々人が努力して養うべきものとして教えることになっているのです。それはあまりに途方もない、法外な目標設定でしょう。こうした「正しいことば」が日本語において空虚に響くとしたら、それは初等教育における無茶な用法と無関係ではないと思います。

『〈公正〉を乗りこなす』p64-65

あなたは個人としては正義を徹底できていますか?という質問にイエスと答えられる人はほぼいない。だから、いつしか社会の正義という仕組み・システムの話も「口にしにくいこと」になっていたと気付きます。

これは、子の発達障害が分かった後に感じた、親としての語りにくさに通じます。私自身の人間性は何も変わらない。清廉潔白ではないし、道徳的にだらしないことは沢山ある。でも、子の権利、それはすなわち障害者の権利について言いたいことは増えた。気にせず口に出せばいいのですが、なぜだか語りにくさがある。

それは、何か社会の公正性を語るにあたり、自分の人間性が問われているような気がしたのからなんだと、本書を読んで気付きました。

ロールズ、そしてローティの哲学を活用し、こうした「口つぐませる」言説の回避方法を学んでいくのが本書の前半部分。面白いのは、後半では「変調」し、ロールズらへの批判を取り出していく点です。「こうすれば会話を続けられるよ」というハウツーに終始せず、その陥穽となる部分にも向き合う。

それは、ロールズ的な会話論が、「会話を求めているということの暴力性」と言い換えられます。

カヴェルの批判が指摘しているのは、ことばにならない叫び、憤激、不名誉の訴えに対して、それを適切に表明するためには「正しいことば」を駆使した会話のテーブルにつくよう要請するというロールズの議論構成がもちうる暴力性です。

『〈公正〉を乗りこなす』p251

私はこれを、会話することに対比して「聴くこと」と理解しました。そしてこれまた、障害者の親として大事なポイントだと感じました。

親はつい、障害のある我が子/親族の「代弁」をしてしまう。でもそれは、本人の「ことばにならない叫び」と本当に同一でしょうか?親である私の「憤激」と、本人の「憤激」を混同している恐れは?

そう考えると、声にならない声を「自分は理解している」「自分は社会に届けられる」と確信すること自体が、別種の暴力となる危険性が見えてくる。「聴くこと」は、マイノリティに近い人ほど、近いからこそ、忘れてはならないものなのでしょう。

話し続けよう、聴き続けよう。それこそ小学校のスローガンのようですが、本書を通じた思索的な散歩の後に、深く胸に刻んだ学びです。

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著者の朱喜哲さんは、同じく哲学者の谷川嘉浩さん、公共政策学者杉谷和哉さんとの対話本『ネガティブケイパビリティで生きる』も面白いです。これもまた、明快な答えで会話を断ち切る冷笑的なやり方に、いかに抗うかが語られた本です。



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