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歴史を学ぶとは「響きに耳を澄ますこと」ーミニ読書感想「歴史像を伝える」(成田龍一さん)

岩波新書の「シリーズ歴史総合を学ぶ」第2巻、成田龍一さんの「 歴史像を伝える--「歴史叙述」と「歴史実践」」が非常に勉強になった。歴史を学ぶとはどういうことか?それは確定的な事実を知り暗記することではない。学ぶ人によって姿形を変える闇の中の歴史に「問い」を投げ掛けること。そして、その問いに歴史がどう響きを返すのか、よく耳を澄ますことだと教えてくれた。


パンチラインは序盤に現れる。日露戦争の後に石川啄木が記した「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る」という短歌を手掛かりに、歴史を学ぶ意味を考える。

啄木流の三行分かち書きで記されていますが、啄木が見ている「手」はどのような手であったでしょうか。この「手」を想像し、私の手や両親の手と比べることが、「歴史的思考力」ということです。「歴史的思考力」を培い、それを養うことが歴史を学ぶ営みであり、同時にその入り口となります。
「歴史像を伝える」ⅵページ

分かりやすく、それでいて胸にまっすぐ刺さった。これほど明快に歴史を学ぶ意味を感じさせてくれる文章に久しく出会っていない気がした。

啄木が見つめた手を、自らの手と重ね合わせる。それは歴史上の人物である啄木を、同じ人間として捉え、思いを馳せることだ。ここに立ち上がってくるのは、無機質な暗記事項の羅列ではない、勇気的な歴史の姿だ。

啄木の手を知るためには、啄木という人や、啄木の生きた時代を知る必要がある。著者は、この歌が読まれた1910年は、日露戦争の後で貧困問題が噴出していたと説く。啄木は妻と母を支え、最後には結核で死亡した。

つまりこの手は生活苦に喘ぐ労働者の手であり、たとえば富裕層の手ではない。啄木の手を想像する方法はさまざまあるが、たとえば「生活苦の労働者を偽って読んだ」という解釈は成り立ちにくい。歴史的思考力とは、開かれたものではあるが、あらゆる解釈を許すポストトゥルースとは全く別物、対極と言ってもよいことがわかる。

啄木の手を想像した私たちは、その想像力をさらに広げて行くことが可能だ。だから著者は「両親の手」を挙げる。これは、たとえば途上国の人の手、女性の手、古代の人の手、多様な広がり方が考えられる。

本書ではこのあとも、森鴎外や夏目漱石、村上春樹の作品を手掛かりにさまざまな手を想像する。あるいは男性中心の歴史の中で埋もれてきた女性らの歴史を考えるために、平塚らいてうの言葉なども扱う。

手をどう握るかで、握り返され方が変わる。まさに握手のように、自ら相手に近づき、そしてその反応を確かめる人間的営みが、歴史を学び、歴史像を捉えることだと学んだ。

つながる本

シリーズ一作目の「世界史の考え方」(成田龍一さんら、岩波新書)も学びが深かったです。歴史総合で重視される対話をどうやるのか、実践的な方法を示してくています。感想はこちらに書きました。


このシリーズを知るきっかけになったのは読書猿さんという在野の知識人の方です。読書猿さんの「独学大全」(ダイヤモンド社)はとんでもない鈍器本ですが、本書と通じる物事への誠実な学び方をつかみとれる本でした。

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