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テープ起こしについて語った言葉にいま感動するーミニ読書感想「編集の提案」(津野海太郎さん)

1938年生まれの元編集者・評論家の津野海太郎さんによる編集論をまとめた「編集の提案」(黒鳥社、2022年3月15日初版、宮田文久さん編)が面白かったです。1970年代〜00年初頭まで、つまりもう50年前から、一番最新でも20年前という論考が掲載されている。普通に考えれば「古びた言葉」なわけですが、全く輝きを失わない。「テープ起こし」について語った言葉に、今読んで感動するというスペシャルな経験ができました。

テープ起こしは、インタビューの様子を収録し、相手の言葉を書き言葉に起こしていく作業。著者はそこに、一種の演出が入り込むと語ります。

インタビュー記事とは書きことばによる話しことばの演技なのだから。したがって、さっきは否定的にいったけれども、他人の皮をかぶって自分がしゃべるというのも、あながち悪いだけのこととは思わない。かれの話をききだしたのは私だし、それを原稿にまとめるのも私である。その作業から生まれてくるのが、いくぶんか私の要素をわかちもつかれであったとしても、それはやむをえないことなのだ。かれのものでもあれば私のものでもあるようなことばの世界ーーだからこそ私は自分で文章を書くことよりも、他人が話したことばを文字化することのほうが好きなのである。

「編集の提案」p21

インタビュー記事とは書き言葉による話し言葉の演技。パンチラインです。

たしかに、話し言葉は書き言葉と「絶対に」一致しない。たとえば、「あー」とか「えーっと」とか、そういった意味のない言葉を書き出すと書き言葉は極めて読みにくくなる。でも、そうした呼吸を除くと、もはや会話は会話でなくなる。少なくとも書き起こしたものは本物の会話ではない。この変換を演技・演出と捉え、その技巧を高めていくのが編集者なんでしょう。

その演技・演出で立ち現れる、「私であり彼でもある言葉」。これこそが、編集者が目指すものであり、読者が噛み締め、味わう本の言葉でしょう。

また、著者が指摘する「書き言葉の演技」は、いまの時代ではどうなのか?という問いを立てることも可能です。たとえば、ユーチューバーが動画内で問題発言をしてニュースになると「切り取りだ」と反論するケースがあります。これは話し言葉・書き言葉の関係で言えばある種ナンセンスな話で、「書かれる」ということは一定の演出が当然起こりうるし、切り取り批判は本来あまり効力がありません。しかし今の時代は書き言葉より話し言葉の方が重要な立ち位置を占めている気がする。書き言葉の演技の力は、今の時代では弱まっているとも言えそうです。

著者は、書き言葉の「批評性」にも言及していて、これもぜひ紹介したい。黎明期のパソコン通信について書いた部分ですが、まさに今のソーシャルネットワークサービス上の「炎上」を予見しているようにも読めます。

 ただ、なにかを考え、それを他人にむかって書くということは、なにがしか批評的、批判的にふるまうことをふくまざるをえないわけで、そのあたりの不作法度の判定が難しい。良識や礼節をまもるために、批評や批判はできるだけ避けるようにしよう。そういう空気が支配的になると、パソコン通信はコマギレ情報の相互交換か、あたりさわりのない雑談や挨拶のやりとりにかぎられ、つまり、本気でものを考える場にはなりえないことにもなってしまう。

「編集の提案」p120-121

話し言葉全盛は、書き言葉の批評性を圧迫しているようにも見えます。あたりさわりのない雑談や挨拶に限られがちで、そうあるべきとなっている、そのことわりに反する言葉は燃えてしまうのが、まさに今のSNSのようにも感じられます。

こんなふうに、本書の言葉は無限に、いまにつながっていきます。

つながる本

プロの言葉はその領域を突き抜けて普遍性を持つ。本書で感じたことと同じことを、元書店員矢部潤子さんの「本を売る技術」(本の雑誌社)を読んだ時に感じました。本の売り方の話が、なぜか仕事論として胸を打ちます。

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