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カインとアベルになるのかならないのかーミニ読書感想「カインは言わなかった」(芦沢央さん)

芦沢央さんのミステリー小説「カインは言わなかった」(文春文庫)が面白かった。謎、まさしくミステリーに引き込まれた。下敷きとなっているのは、人類最初の殺人として聖書で語られる「カインとアベル」の物語。神話をなぞる展開になるのか、それともこれは全く異なる物語なのか、最後までハラハラさせられた。


兄のカインは、弟のアベルばかりが神に愛されることに嫉妬し、アベルを殺めてしまう。ものすごくざっくり言えば「カインとアベル」の筋書きはこうなり、犯人はカイン、被害者はアベルとなる。

本書冒頭では、誰かが誰かを殺しかけている描写が描かれる。その後場面転換し、まさしく「カイン」というタイトルの舞台で主演を務める予定だった男性俳優が失踪したことが告げられる。俳優には天才的素質のある画家の弟がいた。

こうなると冒頭の犯人はカインである俳優であるし、殺されたのは弟の画家でしかありえない。このことを確信に変える状況証拠がその後も次々に出て来るのだが、読者はどうにも「信じ切る」ことができない。

それは、本書の語り手が兄弟を取り巻く周辺人物のリレー形式となっているからだ。兄の交際相手、弟の交際相手、兄のライバル俳優、などなど。それぞれの語り手は、この兄弟の一部分しか知らない。

これは「信頼できない語り手」と呼ばれる物語の技法の一つ。アガサ・クリスティの「アクロイド殺し」や、カズオ・イシグロさんの「日の名残り」に代表される。

作者の芦沢さんは語り手の並べ方、語らせ方が絶妙に上手い。信じたくても信じられない、信じつつも信じ切れない微妙なラインを突き続ける。

「カインとアベル」を下敷きにすれば(本当に下敷きならば)、「フー・ダニット」(犯人探し)ではなく「ホワイ・ダニット」(動機)、「ハウ・ダニット」(犯行トリック)が主題になるわけだが、本書はいつのまにかフー・ダニットが首をもたげ、そもそも誰が被害者なのかも怪しくなる。

伏線の回収や、「騙される」快感を味わうミステリーとは一味違った。精密な物語のテクニックで、謎が最後には鮮やかに解明され、一方で微妙な「しこり」を残し、読後も読者に謎解きをさせる。「すごい」と唸らざるを得ない、そんな物語だった。

つながる本

同じように歴史的名作をベースにし、果たして同じようになるのかならないのか?とミステリーに突き進む名作として、早瀬耕さんの「未必のマクベス」(ハヤカワ文庫)が挙げられます。タイトル通り、シェイクスピアのマクベスが題材。

芦沢さんの作品は「新しい世界を生きるための14のSF」(伴名練さん編、ハヤカワ文庫)で初めて出会いました。こんなにも素晴らしい作家さんがいるのかと。他にもたくさんの人生に出会えるアンソロジーです。

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