発達障害のある子の豊かな将来像から逆算する(したい)
先日感想を書いた児童精神科医・本田秀夫先生の『知的障害と発達障害の子どもたち』(SB新書)に、「知的障害のある子を育てる時は、将来の姿から逆算して考えてみて」という考えが示されていました。
正直、読んだ時は「酷だな」と思いました(だから感想記事では紹介してない)。
アドバイスはもっともです。たとえば、将来、一人で買い物できるようになるという姿を据え、そこから逆算する。するとたとえば、買い物のためには足し算・引き算が出来るようになる、買うべきもののリストを作れるようになる、といった課題が見えてきて、それを知的障害の発達段階に応じてゆっくりと習得していこう、というもの。発達がゆっくりである子に、いきなり買い物をさせるよりもはるかに効果的なのは、想像に難くないです。
けど、子育ての「普通の」楽しみといえば、やはり未来からの引き算ではなくて、現在からの足し算ではないでしょうか。親バカなのはそうなのだけれど、子どもが色んなことをできるようになって、未来が無限に開かれていくような感覚。もちろんそれは現実的じゃないし、特に知的に発達がゆっくりな子に親の理想を押し付けるのは、ネガティブな影響の方が大きそうではある。
そうだけど、分かってはいるけど、でも酷だな、というのが正直な感想でした。
でも、この助言を肚に溜めて、しばらく経って、考えが変わりました。この助言は必要なんだと。
ただ、少し角度を変えてみるべきではないか。
それは、我が子の豊かな将来像から逆算すること。
「理想の」とか「最高の」とか「幸せな」ではない。幸せは別にいいかも知れないけれど。でも、どうしても幸福度を考えると、人に比べてとか、定型発達者の親の理想とする、という色が濃くなる。
豊かとはそれよりも、この子にとって、この子らしく、恵みの多い姿、そんなイメージです。
たとえば私は豊かな姿として、いま目の前の幼児が浮かべているような、ニコニコした笑顔を保っていてくれたらと思う。大人になっても穏やかで、自分なりのニコッとする楽しみを持ってくれたらいいな。
絵本を夢中でめくっているような、何かに没頭する時間があればいいな。
コミュニケーションは苦手だろうけど、時々見せる、「信頼できる人と繋がる喜び」を、少しでも感じてくれたらいいな。
そんなふうに思います。
こんな未来の子どもの姿から逆算した時、いま必要なのは何か。いま、親としてしてあげられること、すべきことは何か。
それは、エコラリア(オウム返し)にイライラして、それをやめさせることではない。苦手な会話を強制することではない。かんしゃくを起こしてしまう子に「なんで分からないの!」と声を荒らげることではない。「発達の遅れ」を取り戻そうと、できないことを無理やりやらせることではない。
同年代と比べて「この子にはこれができない」「遅れている」と感じて、その表情を我が子の前で見せることではない。
すべきではない一つ一つは、我が子の豊かな未来にはつながらない。大人になった我が子が、記憶の奥底から思い出したくなる、喜びや安心ではない。
話せなくても、身辺自立が進まなくても、「大丈夫さ」と言ってあげること。パニックになった我が子に「どうしたの?」と寄り添って、やはり大丈夫と言ってあげること。好きな遊びにはとことん付き合ってあげること。一緒にニコニコすること。
もちろんここに書いたのは理想です。とはいえ怒ってしまうし、理不尽な気持ちをぶつけてしまうでしょう。つながり合えない感覚に、悲しみを覚えるでしょう。「普通」だったらどれだけ良かったか、落胆するでしょう。
でも、豊かな我が子の未来から逆算して、望ましいことは、なんなのか。それは揺らがないし、少しでも、その望ましいアクションに近付けることはできる。
私は怒らない。未来の君に笑って欲しいから。
私は比べない。未来の君に安心して欲しいから。
そうやって言い聞かせて、5回に1回、いや10回に1回、イライラを抑えられるかも知れない。
そんなことを思いました。
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