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噛むたびに味が違うー読書感想「クララとお日さま」(カズオ・イシグロさん)

子どもでも読めそうなくらい平易な言葉で書かれているのに、どうしてここまで奥行きのある物語を紡ぎ出せるのだろう。カズオ・イシグロさんの最新小説「クララとお日さま」。語り手は「AF(人工親友)」と呼ばれる、ロボットの少女で、語り口はとてもやさしい。しかし、だんだんと見えてく世界には、遺伝子操作、格差社会、人間の分断、果てのないロボット利用、信仰などなど、私たちの未来社会に起こりうる様々な問題が詰め込まれている。ページをめくるたびに新しい思いが芽生える。噛むたびに味が違う。とてもふくよかな物語でした。(土屋政雄さん訳、2021年3月15日初版発行)


不十分な語りの魅力

「クララとお日さま」は主人公のロボット・クララの独白の形で進む。そのため、決して理路整然とした運びではないし、唐突感のある話が飛び出すこともある。聞き手には欠けている情報も少なくない。その語りの「不十分さ」がよい。

不十分さは突然、読者の目の前に現れる。たとえば

 健康状態がまだとてもよかったその当時、ジョジーは夕食も、母親が仕事から帰宅したあと一緒に食べることにしていました。(p78)

ジョジーとは、主人公を購入した家庭の少女であり、主人公が「親友」になることを義務付けられた人間。当たり前のように「健康状態がまだとてもよかったその当時」と書かれるけれど、読んでいてどきっとする。つまり、この後の物語で、少女は健康状態が悪くなることが暗示されているからだ。

こういった不穏さ、もやもや感の塩梅が、イシグロさんは大変巧みだと思う。主人公の語りによって物語を進行するスタイルはこれまでもあって(「日の名残り」など)、円熟味が増しているのかなと思う。

そもそも読者には、AF(人工親友)という機械が何者で、いったいどういう経緯で生まれたのか分からない。世界の全体像が見渡せない。だからこそ、主人公のロボットの語りから耳を離せなくなる。聞き漏らさないようにしようと努める。結果として「クララとお日さま」は、不思議な没入感を与えてくれる。


何層にも重なった問題

本書は「クララとジョジー」ではない。ロボットと少女の交流は主題になのだけれど、タイトルには少女と別の存在である「お日さま」が挙げられている。ここに何かポイントがあるような気がしてならない。

AF(人工親友)は太陽光を原動力にしているようであることは、第一部のかなり前半で示される。そのことから、AFである主人公には太陽に対する親しみ、さらには信仰に近いような思いがあることが描かれる。

「クララとお日さま」というタイトルは、主人公のロボットと、そのロボットを動かす世界、あるいは世界に対するロボットの憧憬や、言葉にならない心の動き、思いとの関係性を示しているように思える。

この世界というのが、実に様々な問題を含んでいるのが面白い。

たとえば「向上措置」という言葉が出てくる。どうやらこの世界の子どもたちは、何らかの遺伝子的・生体的な能力向上の科学的措置を講じられることが一般的なようだ。この向上措置が、少女ジョジーの体調悪化と関係しているように思えてならない。(もちろんこうした情報も、断片的にか語られない)

また、少女ジョジーと思いを通わせる隣人の少年が出てくるのだが、その少年が「未措置」であることがたびたび問題に挙げられる。つまり、向上措置の登場と、それを受けるかどうかの選択が、人々の分断を招いている。

ちなみに、少年の家にはAF(人工親友)はいない。そうすると、AFがいる家といない家の格差も考えられるし、そもそも少年というリアルな友人がいるのに、なぜAFが必要になるのかも見えてくる。

お日さまそのものも考える材料になる。主人公は、太陽にかなりの親近感を持っている。科学的な存在であるAF(人工親友)にしてはあまりに非合理的なほど、お日さまへの思いや期待を抱いている。このギャップはなんだろうか?それとも、この非合理性も機械として計算された非合理性なのだろうか。

私たち読者は、クララという機械の語りを通して、お日さま=この世界のあり方をのぞき見る。そしてクララとお日さま(世界)の間にある歪みや、一方で変わることのない人生の豊かさを目の当たりにする。日がその位置によって空の色を変えるように、この物語はところどころで違った姿を見せる。それが素敵だった。

次におすすめする本は

小川哲さん「ユートロニカのこちら側」(ハヤカワ文庫)です。人間の常時監視、分析を交換条件に、絶対安全で幸福な都市を構築したとする未来の話です。病気も不幸も犯罪もないとするユートピアが、実際にはディストピアかもしれない。「クララとお日さま」の未来社会を考えるヒントになります。


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