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危機はスケープゴートを欲するー読書感想#34「経済政策で人は死ぬか?」

「経済政策で人は死ぬか?」は社会経済が不安定となる今、読んでおいてよかった本でした。著者のデヴィッド・スタックラーさんとサンジェイ・バスさんは公衆衛生学の専門家。世界恐慌、ソ連崩壊、アジア通貨危機、現代ギリシャを題材に、「緊縮財政が人の健康を悪化させる」と主張する。見えてくるのは、経済危機において国家は誰かをスケープゴートにしたがるということ。これは、いまこの瞬間にも抱いておくべき戒めだ。


不況が性感染症を広げたのか?

2012年春、ギリシャはサブプライムローンに端を発する経済危機に直面していた。しかし同時期に選挙も控えている。出馬の意思を固めていた保健・社会福祉相のロドルベス氏は何をしたか?経済危機と同時に拡大していたHIV感染を止めるとして、セックスワーカーを弾圧した。

ロドルベスはさっそくテレビに出て、模範的かつ家庭的な父親の代表を演じ、不況のせいで失われたギリシャ社会の美徳を復活させなければならないと説いた。そして、「社会の迷惑」であり「不衛生な爆弾」でもある売春婦を逮捕すると約束し、それを実行に移したのが二〇一二年五月一日だったというわけである。この日、保健・社会福祉省は拘束した売春婦たちの血液検査を行い、HIV陽性だった二十九人の売春婦の写真を公開し、彼女たちこそ「人々に死をもたらす罠」だと非難した。(p142)

ロドルベス氏は性感染症の拡大を「不況で社会の美徳が失われた結果」だと解釈した。その上で、政府は「不衛生な爆弾」を取り除く任務があると規定した。そして目に見える人々を弾圧することで、政府が問題解決に動いていると見せた。

しかし、そもそも性感染症の拡大は「不況の結果」なのだろうか?デヴィッド&サンジェイさんはこの前提に真っ向から批判を浴びせる。性感染症拡大を招いたのは不況ではない。それは政策の不在の結果である。


政策が止まれば病は増える

ここでアジア通貨危機下のタイに目を向ける。

タイは1980年代からHIVが拡大していた。しかし、「ミスター・コンドーム」と呼ばれた社会活動家メチャイ・ビラバイジャ氏が奮闘し、政府を挙げて「100%コンドーム使用政策」が展開される。1992年に200万ドルだったHIV感染予防対策費は96年には880万ドルに達し、性産業従事者のコンドーム使用率は25%から90%まで拡大した。

しかし、通貨危機が直撃する。98年、IMFの勧告で感染予防対策費は大幅カット。すると、売春宿へのコンドーム無料配布は、96年の6000万個から98年には1420万個に減少した。一方でエイズ感染者数は、97年は人口10万人当たり40・9人だったのが、98年には43・6人まで増加した。

たった数年で社会の「美徳」は変化するか?そうは思えない。むしろ政策を止めたことで予防対策が脆弱になり、性感染症が拡大したと考えるのが妥当だ。

性感染症拡大が不況の結果よりも政策の結果だとすれば、政府は「問題解決者」以前に「問題生産者」だ。この現実を隠すためにこそ、政治はスケープゴートを必要とする。そう考えた方がいい。そしてこれは今現在も世界で、あるいは日本で起こっていることだと考えた方がいい。


医療が市場原理と相性の悪い2つの理由

政策の結果が不況の結果にすり替えられ、本来は建て直しに有効なコストカットが健康危機を招く理由は、医療と市場原理の相性の悪さに求められると思う。本書ではケネス・アロー氏の論文が援用され、市場原理に任せると質の高い医療が実現できない理由が端的に2つ挙げられている。

(中略)医療は主に次の二点で一般的な市場財とは異なる。一つはニーズの予想が難しいこと。もう一つは思いもかけず高額になる場合があること。たとえば、心臓発作を起こして冠動脈バイパス手術を受けるといったことは、いつ起きるのか事前にはわからない。そのためにいつ金を用意しておけばいいのかもわからないし、少々貯金してみたところで、大きな手術を受ければすぐに底をついてしまう。だからこそ保険に入るのだが、それで問題がすべて解決されるわけではない。なぜなら、保険に入るということは、どういう治療は受けられて、どういう治療は受けられないのか他人に決めさせることを意味するからである。(p179)

第一に、医療はニーズの予想が難しい。心臓病にいつかかるかわかる人は存在しない。一生かからないかもしれないし、明日かもしれない。

第二に、医療にかかる費用は思いがけず高額になる。心臓病になるとして、それが特に困難な心臓病だったら、用意していた貯金では足りない。

医療は「高額だから控えよう」とコントロールすることができない。もし受けることになっても費用を抑えることが自分の意思では難しい。だからこそ、不況下で公衆衛生費用をカットすると、人々の健康危機に直結する。

このことを頭に置いておけば、政府が誰かを血祭りに挙げて社会の溜飲を下げさせようとしたときに、「そんなことより公衆衛生費用を守ってくれ」と訴えられる。改めて、公衆衛生学者の声を胸に刻もう。

(中略)独自のデータ分析を行ったオーストラリアの公衆衛生研究者たちも、この自然実験の結果をこうまとめている。「これらの結果から浮き彫りになったのは、社会保護政策が、それが最も危険にさらされた人々の助けとなるよう考慮されたものであるかぎり、経済危機が健康や医療に及ぼす悪影響から国民を守るために必要欠くべからざる手段だという事実である」。同様に、ジョンズ・ホプキンズ大学公衆衛生大学院の研究者たちも、「社会保護政策は、不況の際に、それが健康や医療に及ぼす悪影響から国民を守るという重要な役割を担っている」と述べている。(p106-107)

健康危機は政策の結果起きる。だから公衆衛生を守る政策があれば、不況下でも健康危機は回避できる。なかなか難しいとはいえ。(橘明美さん、臼井美子さん訳。草思社、2014年10月15日初版)


次におすすめする本は

リチャード・セイラーさん「行動経済学者の逆襲」(ハヤカワ文庫ノンフィクション)です。公衆衛生学と経済学がクロスしたところに今回の学びがあったように、心理学と経済学を融合させた行動経済学は人類を前進させた。その歩みを俯瞰できるとともに、世の中に新しい学問を納得させるのはこれほど難しいのか、とも感じられる半生記です。

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