不可解なものを不可解なままーミニ読書感想『計算する生命』(森田真生さん)
数学者・森田真生さんの『計算する生命』(新潮文庫、2023年12月1日初版発行)が面白かったです。数学が苦手な文系人間も楽しめる。古代ギリシアから現代の人工知能まで、計算する生命としての人類史を紐解く。数学がテーマですが、悠久の物語として読むことができます。
数学が物語?その食い合わせは悪いように思われます。数学には規則性があり、隙のない論理性がある。物語が入り込む余地はあるのでしょうか。
しかし、本書で語られる数学史は、ある意味ミステリーに彩られた歴史です。
たとえば、「2-4=-2」の数式を考える。当たり前のようですが、たとえばリンゴをイメージすると、これは2つのリンゴから4つを引くと、2つ引いた時点でリンゴはゼロになる。つまり、現実の物質の数量で考えると「2-4=0」の方が正しそうに見えるわけです。この世界においてはマイナス2という解は、実にミステリーな存在である。
規則と意味が時に噛み合わない。そのことについて、著者はこのように語ります。
数学者は、規則に従う中で意味不明な世界に出くわす。そこで引き返さず、意味不明なものとあれこれ格闘するうちに、新たな意味が開ける。このことを著者は「不可解なものとして不可解なまま粘り強く付き合う」と表現する。
もう少し端的に、こんなまとめが続きます。
不可解の訪問を許し、粘り強く付き合い、認識の範囲を少しずつ更新する。
このスタンスは、発達障害のある子を育てる親に求められる姿勢と一致するなと感じました。
いわゆるASDのこだわりや、ADHDの落ち着かなさは、定型発達の世界から見れば不可解でしかない。それは定型発達の意味付けに収めようとすれば、「こだわりすぎ」「動きすぎ」でしかない。
しかし、実際には、障害のある当事者には、その人なりの論理がある。そのことに気付くには、不可解なまま彼ら・彼女らと付き合う他ない。そうして、自らの認識を拡張した時、障害のある側にとっての安心感や理解につながる。
まさか数学者の格闘が、障害への理解(受容)とつながるとは思いませんでした。
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