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綱渡りから落ちるときー読書感想「絶望死」(ニコラス・D・クリストフさん)

「絶望死 労働者階級の命を奪う『病』」(ニコラス・D・クリストフさん、シェリル・ウーダンさん)を読みました。米国で経済的に困窮する人々が比較的多い地域で、いったい何が起きているのかが具体的に描かれたノンフィクションでした。なぜなら、登場人物の多くが著者のジャーナリストの「同級生」だから。クラスメイトが綱渡りの人生を歩み、落下して命をなくしていく姿をレポートする。歯を食いしばらなくてはできない仕事だったと思います。(村田綾子さん訳、朝日新聞出版、2021年3月30日初版)


絶望死とは何か

邦題の絶望死は、プリンストン大学の経済学者アン・ケース氏とアンガス・ディートン氏が指摘した現象だそうだ(p161)。米国の中で、低所得層で、一定程度の学歴より低い白人層の平均寿命が短くなっている。寿命の短縮の共通要因は、薬物、アルコール、自殺三つであり、総じて「人生に絶望したことで死に至っている」と分析している。

どういうことか。本書では、絶望死に至ったさまざまな人たちの実例が描かれる。多くは虐待や性暴力など、主に幼少期に過酷なトラウマ体験を受けている。その傷をしのぐために、早い時期から薬物やアルコールを頼ることになる。

薬物は当然違法であり、結果的に彼らは「犯罪者」となる。前歴がつくと再就職が困難になる。結果的に、薬物やアルコールへの依存度が高まる。アルコールは違法ではないものの、健康を害する意味では同等の役割を果たす。最終的に、自ら人生の幕を閉じてしまう人も現れる。

では絶望死は、貧困の問題なのだろうか。あるいは薬物を蔓延させている治安上の問題か。メンタルヘルスの問題といえばよいのか。いずれも少しずれていることが、本書を読み進めるにつれてわかってくる。


タイトロープ

本書の原題は「TIGHTROPE(タイトロープ)」。日本語で綱渡りを意味する。本書を読んで、どうして絶望死の本のタイトルが綱渡りなのか肚に落ちる。絶望は、綱渡りの人生から落ちた時にやってくるからだ。

ある女性のエピソードが印象に残る。暴力的な父親がいる家庭で育ち、きょうだいはアルコールや薬物の過剰摂取で亡くなっている。それでもこの女性は高校を卒業し、通信関連の定職にもついた。しかし、過去のトラウマが強くなり、抗不安薬を飲むようになると、それに依存するようになった。

抗不安薬は安価に十分手に入るわけではない。やがて代替品として覚醒剤に手を出し、その後逮捕された。結婚し、子どもを設けていたが、保護施設に渡すことになった。

取材当時、39歳。彼女が登場した章の終盤では、なんとか人生をやり直そうとしていた。そのままハッピーエンドから終わるかと思いきや、最後のセンテンスで次のように語られた。

 (中略)女性(※本文中は実名)からの返信が途絶えた。ようやく返ってきたメールは、彼女の娘が書いたものだった。女性は薬物検査に不合格だったため、逮捕されてあと2、3年間刑務所の中だ、と。子どもたちは綱渡りの人生に戻った。この先どうなるのか、彼らにはわからなかった。彼らを取り巻く世界は混乱へと逆戻りを始めたのだった。(p312)

回復したと思っても、それは綱の上の回復なのだった。一歩間違えば転落する。やり直すためには再び、綱の最初から歩き直しになる。


求められること

絶望死は綱渡りのプロセスで生じる現象だと考えると、問題は綱渡りをすること、落ちても容易に復帰できるようなセーフティネットがないことこそが、問題の本質だとも考えられる。それが著者らが訴えていることだ。

この視点に立てば、絶望死は政策的な問題に置き換えられる。絶望死に向かう人に公的支援が届けば、実際には命を落とさないかもしれない。薬物やアルコール、自死の「代替的な選択肢」が不足しているのだ、と。

こうした議論は既に始まっているとも言える。たとえば日本では、「孤独担当相」が設置され、孤独対策という名のパッケージ支援が検討されている。ただそれが、絶望死が増える速度に追いつくかは当然予断を許さない。そもそも、絶望死を「自己責任」ではなく「公的責任」と認めるかどうかも意見が分かれそうだ。

日本は米国社会の「後追い」をしている側面を思えば、本書に描かれる世界は日本の未来とも言える。残された時間はきっと多くない。


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