ミモザとマイク
3月8日の国際女性デーにあわせて投稿された漫画「マイクを手放すな」が、プチバズを見せており、とても興味深い問題提起となっているので、紹介したいと思う。
内容を簡単に言えば、本来は女性のための運動であったはずの「ウィメンズ運動」が、トランスジェンダーや男性の権利、さらには国際政治や政治資金の問題まで含めるものとして扱われ、肝心の「女性」からマイクが奪われている、と述べるものだ。
一定の批判はすでになされているから、繰り返しはしない。実際、論理的な文章とは言えない。トランスジェンダーの人々を「ジェンダーを背負いたがっている」というのも意味が分からない(むしろジェンダーによって自己実現を阻害されている人々なのではないかと思うが)。
ただ、この漫画の作者が訴えたいことの切実さも非常によくわかる。
かつて女性のための運動として始まり、婦人参政権、反コルセット、そして「名前のない問題」として提起された戦後のジェンダーフリー運動に至るまで、女性の「自由と尊厳」が中心的な要求だったはずのものが、トランスジェンダー問題やジェンダー解体などといったものにどんどんリソースを割くようになっていった。
もうすでに誰の目にも明らかであるように、こうした原理主義的な「男女平等」の主張は、ときに女性の「自由や尊厳」と鋭く対立するものだ。
そして、このことは誰の目にも明らかであるにも関わらず、運動の当事者すらかなり混乱している。(例えばこの漫画の作者も、ジェンダーがいずれ解体するべきものなのか、属性として本質的なものなのか、論調が揺れているように読める。)
はっきり言うが、差別・差異・区別……といったようなものは、しばしば、自由(安全・権利)や尊厳を守るうえで、必要なものでありうる。
例えば、女性専用車両、女子トイレ、女子校、男女別浴や、公共施設の女性専用スペースは、それを利用する女性の安心(それは、しばしば、具体的・現実的な危害からの「安全」ではなく、「安心感」を提供するものという意味での「安心」であったりする)や、女性として社会から尊重されているという感覚を受けるという意味での「尊厳」を確保するために必要なものだ。
社会構築主義に立つ社会学者が、例えばかつての社会は混浴であった、みたいな話をしたり、雌雄の別は相対的であいまいなものだ、という説明をしても、女性のこの「ぞっとする感覚」(嫌悪=安全・尊厳を脅かされた感覚)を消し去ることはできないだろう。
このぞっとする感覚は、端的に言えば、「差別」以外の何物でもない。
例えば、アパルトヘイトや、バスの座席で黒人と白人を区別することとどう違うのかと問い詰められれば、返答に窮さざるを得ないだろう。
ローザ・パークスが白人に席を譲ることを拒否したときに、白人の乗客が感じた感覚と、女性専用車両に男性が乗り込んできたのを見たときの女性乗客の感覚を区別することは、そう簡単に説明できるものではない。
それでも、同時に、この「ぞっとする感覚」の存在は、社会の偽らざる現実であり、女性の身体そのものに癒着した感覚なのであって、それを無視して「差別はよくない」「ジェンダー平等」などと言ってみても、女性自身の身体感覚から思想がますますズレていくだけだ。
もちろん、ものすごく長い目で見れば、トランスジェンダーが男女両性の専用スペースに入り込んでいき、人々がそれを承認するようになれば、徐々に、それが当たり前の光景になっていき、やがて嫌悪感もなくなる……といったような「未来」もあるいはあるかもしれない。(ちょうどアパルトヘイトなどが消滅していったように)
しかし、私たちが生きているのは「現在」であり、そして現在は「過去」のつらなりの上に成立している。いま、ここにある、ここで息づいている私たちの肉体の感覚を無視しては、思想は机上の空論になってしまう。未来を作るのは、たくさんの積み重なった現在であるということを忘れた結果が、運動の担い手たる女性と、ウィメンズ運動の理論的指導者の思想との乖離なのではないだろうか。
「未来」に視線が釘付けになってしまうのが、結局は、リベラル派や知識人のみなさんの一番悪い癖なんじゃないかと、私は思う。(たぶん進歩史観などの思考の「型」みたいなものなんだろう)
社会は構築されたもので、男女もその構築物の一つに過ぎない。これは確かに究極的には、つまりものすごく長い時間軸をとれば、そのとおりなのだろう。
けれど、「現在」を生きる私たちにとっては、男女の差異は厳に存在しているものであって、「本質」以外のなにものでもない。そして、一般的に、変化は人間に苦痛を与える。
そしてもう一つ言っておくべきことがある。それは、社会における尊厳というものは、限りあるリソースであるということだ。
女性専用スペースから排除されたトランスジェンダーの人々は、自らの性的志向が尊重されていないと感じ、「尊厳」を失うかもしれない。
けれどそれは、女性身体を持っている女性が、女性として尊重されている社会(=女性身体の持ち主に専用スペースが与えられ、ぞっとする感覚から守られる程度に「配慮」されている社会)を作るという「尊厳」の問題とトレードオフなのだ。
政治や社会というものは、この尊厳という有限なリソースをいかに分配するかという側面を持っている。誰かの尊厳のためには、誰かに屈辱を感じさせる必要がある、という局面が必ずある。
そうしたときに、従来のリベラルやフェミニズムの理論家が使ってきた方程式は、なるべく社会における弱者・マイノリティのほうへ傾斜させるのが「正義」であり、万人が同程度の尊厳を維持できるような社会が理想だ、というものだ。
より強者から弱者へ、つまり、男性よりも女性に、女性よりもトランスジェンダーに、尊厳というリソースを再配分するべきだ、という思想が根底にあったのではないかと思う。
だから、女性専用車両に男性が乗り込むような事例には批判的だが、女子高にトランスジェンダーの方が入学する、といったような事例には肯定的である、というような事態が生じる。
けれど、それは当然、尊厳を他者に奪われたと感じる側の反発を生むことになる。男性から女性への尊厳の分配に反対する人々がアンチフェミニストとなり、女性からトランスジェンダーへの分配に反対する人々がいわゆるTERFとなっているのが現状だ。
尊厳の分配の問題は、数字で表しがたい分、お金の再分配よりもさらに複雑だ。なにが公平で、なにが不公平なのかを表す指標も存在しない。
だから、自由と尊厳を奪われていると感じる人々が、マイクを手に取ったときに、それを差別だとか、反進歩的だと言って切り捨てることには、私は反対だ。そこには耳を傾けるべき政治問題があるように思う。
けれど、「マイクを手放すな」の作者の方に言うならば、マイクを一度手に取ったならば、一つの倫理的義務が発生すると思う。
それは、他の人々の手にしたマイクも尊重するべきことだ。
あなたが自由と尊厳を訴える時、その裏側には、あなたの自由と尊厳のために自らのそれを差し出さなければならない人がいるかもしれない。
例えば、公共空間に貼られた萌え絵のポスターを、自分たちの尊厳のために剥がすべきだと主張するならば、その反対側には、そうした文化を誇りに思い、公共空間から追い出されることで、たとえようもない屈辱の感覚を抱く人々がいるかもしれないのだ。
尊厳を巡るポリティクスは、私たちの身体と強く癒着していて、リベラル派の人々が考えるほど、やすやすと「進歩」なんかしない。
だからこそ、議論と対話を続けるしかない。いま、ここにいる人たちを一人でも多く救いたい、そう願うリベラル派の人たちからすれば、それは苛立たしい、悠長な、ときには罪深くさえある行為に映るのはわかる。その感性はとてつもなく正しい。
でも、その正しさの名の下に、徐々に、確実に、対話のチャンネルが閉ざされつつある。それが今だ。そしてその先には、閉塞しか残らない。
マイクを手放してはならない。
ただし同時に、対立者にもマイクを握らせなければならない。
そして、お互いの感情に耳を傾け合うというのが、まずは第一歩ではないだろうか。
以上
青識亜論