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私がネトウヨになった日のこと

今はネット論客などということをやっているけれども、私にも中学生だった時代がある。もう二十年も前になるだろうか。当時はインターネットといっても、ダイヤルアップ接続とかいう電話回線を使うのが主流であって、テキストだけのサイトにつなげるのでも、ひと苦労だった。2chとかもまだあまり一般的ではなく、BBSとかいう小さな規模の掲示板が乱立しているような時代だった。

いまでこそ私は政治とか表現の自由の話をいろいろと書いているが、当時は別にそれほど政治に興味があるほうではなくて、それよりもガンダムとか月刊少年ガンガン連載の漫画とか(鋼の錬金術師が連載開始となった、超熱い時期だった)、そういうのに夢中の、片田舎徳島県でぶらぶらと日々を過ごす、ごく普通の中学生だったように思う。

そうそう。本論とは関係ないが、同級生には後に声優になる豊崎愛生氏がいた。背が高くて、確かバスケットボール部に入っていたような気がする。特に目立っていた印象もなかったし、アニメ業界と縁がありそうな雰囲気でもなかった。まあ、中学校時代なんてそういうものなのだろう。

閑話休題。

そんな私がはじめていわゆる「政治」というものに関心を持つようになったのは、「吉野川第十堰可動堰化問題」だった。

私の故郷、徳島は、長い間、吉野川の氾濫に悩まされていた。吉野川は全国でも有数の「暴れ川」だ。今でこそずいぶん治水は良くなったが、子ども時代のことを思い出せば、大雨で河川が氾濫して、交通遮断で登校できない……なんてのは夏の風物詩だったように思う。

わけても「第十」と呼ばれる吉野川中流の地点は、江戸時代、流域農民の水源確保の観点から、吉野川を新旧の二つの河川にわける壮大な堰が設けられた地点であって、平時には徳島市民の喉を潤す水源となるが、増水時には巨大な堰がかえってあだとなり、「堰上げ」と呼ばれる現象によって、重大な水害が発生する危険性があった。

そこで、建設省(現・国土交通省)は、堰を可動堰化することで有事の水量調整を図るため、1,000億円にも上る巨額の整備計画を立てたのであった。

1999年、この事業を巡って、にわかに徳島県が全国のメディアから脚光を浴びることになった。

当時、ダムとか堤防とか、そういう土木事業は、悪の象徴のようなものだった。長引く平成不況のさなかで、市民の生活だって苦しいのに、そんな無駄な事業をやっている場合かと、そういう論調だった。

今にして思えば、不況期だからこそ、公共事業を起こして経済活動を活発にするべきなのだろうが、当時はとにかく、政治家が汚職をするのも、企業がバタバタ倒産するのも、子どもの受験が失敗したのも、隣の家の犬がうるさいのも、全部全部、悪の官僚と公共事業が悪い、メディアは連日連夜、官僚と公共事業を叩きまくる報道を繰り返していた。

さて。そんな中で、ちっぽけな片田舎の徳島で、1,000億円だかの巨額の公共事業をやるのだという。大騒ぎにならないはずがなかった。

建設省の説明では、「150年に1度」の洪水が起こったときに、今の堤防ではもたないのだという。

150年に1度?

今でさえ生活は苦しいのに、150年に1度とかの話をしている場合ですか。どうせ、官僚と与党政治家がいい加減な計算をして、自分らに利益を誘導するためにでっち上げたんだろう。

それに、吉野川にはなんだかよくわからない、そう、貝だか虫だか、とても貴重な生物資源の宝庫で……絶滅したらどうするんだ。

エコロジーエコロジー。無駄遣い無駄遣い無駄遣い。汚職汚職。

メディアは第十堰可動堰化反対の大合唱で埋め尽くされた。

今でも、当時のあの熱に浮かされたような、奇妙な空気を思い出すことができる。

なにせ、徳島県人はお祭りが大好きだ。全身に流れる阿波踊りの血が騒ぎだし、思わず踊りだしてしまう。まして、全国メディアでこれほどまでに徳島にスポットライトが当たったときなど、あっただろうか(いや、ない)。

踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、とばかりに燃え上がった。

「勝手連」なる市民運動が次々と立ち上がり(このへんも阿波踊りのノリである)、にわかに地元に政治の嵐が吹き荒れたのだった。

そんな中、中学生生活を満喫していた私は特になんの関心もなく、学校で議論することと言ったら、当時再放送していた新世紀エヴァンゲリオンの物語の解釈だとか(グノーシスがどうのこうの、ユング心理学がうんたらかんたら)、三国志は魏の曹操と蜀の劉備のどちらが名君かとか、まあそういう、なんだろう、政治とはなんの縁もないオタクとしてダラダラとやっていた。ゲームは確かファイナルファンタジー7が発売されていて、環境問題とか意識してるのかなー、さすがスクウェアすごいなー、とか思いながらプレイしていた。

ところが、である。

ある日、環境問題を研究するという課外授業が行われることになった。各班に分かれて、地球温暖化とかオゾン層とか、なにかひとつの環境問題をテーマに、本を読んで調べたり、現地取材に行ったりして、研究成果をとりまとめ、発表するというもの。

私はオタク連中でつるんで班を形成し、「地球圏の汚染とニュータイプについて調べるでござる(デュフフ←オタク特有の気持ち悪い笑み」などと言っていると、教師から強制的に「第十堰可動堰化問題」を課題として押し付けられることになった。

よりにもよって一番面倒そうなやつを押し付けられているし、今にして思うと、「環境問題」という切り口で第十堰問題を調べるということ自体、ある種の政治的偏向が存在している。が、とにかく政治に無関心だった当時の私は、はいはい、調べればいいんでしょうとばかりに、教師の言うがままに、取材にでかけたのだった。

取材に指定された先は――今でも学校の授業として、これはどうかと思うのだが――可動堰化「反対」の領袖であり、当時の市民運動のリーダーであった姫野雅義氏の事務所だった。

連日、テレビに出演しているような市民運動のリーダーの事務所に、ガンダムオタクをこじらせたような中学生が押し掛ける……よくわからないシチュエーションだ。

姫野氏は子供扱いすることもなく、優しく応対してくれたように思う。事務所には、第十付近の河川をかたどった立体模型が置いてあった。ひとつひとつ指差しながら、複雑な水理問題を丁寧に解説してくれた。

「150年に1度の水害を防ぐために、堤防を作るって建設省は言うけれど、じゃあ、200年に1度の水害がきたらどうするんだ? 300年に1度の水害なら?」

「そうやって堤防を大きくしていけば、際限がなくなるよね。そのために1,000億円をかけると県は言うわけだ。その借金を返すのは将来の世代、つまり君たちだよ。どう思う?」

「それにね、このあたりは珍しい種類の水鳥の生息地なんだ。絶滅してしまった生物種は二度と戻らない。それはお金で買えないものだ」

その落ち着いた語り口に、私たちはいつしか引き込まれていた。気が付けば、私たちのグループはみな、可動堰化反対派になっていた。班の男子の一人などは、「腐敗した連邦の連中をアトミックバズーカで吹き飛ばしてやりましょう!」などとおどけて言っていた。みな、阿呆だった。踊る阿呆になっていた。

私も、まあ、特に政治に定見がない学生だったので……というのは言い訳だが、その時は可動堰なんかやめりゃいいのにと思っていた。

しかし、どうしてそんなことを思いついたのかわからなかったが、なにげなく浮かんだ一つの疑問を、姫野氏に向かって口にした。

「もしも、建設省が言う150年に1度の大水害が来て、たくさんの人が亡くなったとしたら……姫野さんは責任をとれるんですか?」

中学生相手なのだから、威勢のいいことを適当に言っておけばいいのに、姫野氏は少し黙って考えたあと、こう口にした。

「責任は……みんなで取るしかない」

そうですか。

口だけでも「私」とは言わずに、「みんな」と言う。

自分たちはただの市民で、権力者ではないから。

勝手に集まり、勝手に踊って、その後始末は誰かがやる。

中学生時代にはじめて触ったナマの「政治」は、なんだかモヤモヤとしたものを胸中に残していったのだった。

それからはいろんなことがあった。

爆発的に広がった可動堰化反対運動は、ついに徳島市の当局を追い詰め、住民投票が行われることになった。

当局は苦し紛れに、「投票率50%以下なら無効」などという条件を付けた。これが住民感情を逆なでした。

徳島の町中を、黄色に黒字の「投票へ行こう」のプラカードとポスターが埋め尽くした。ものすごい熱量だった。文字通りのお祭り騒ぎだ。

可動堰化賛成派は、投票棄権運動を展開したが、かえって賛成投票を行う人々と、棄権する人々に分裂する結果となってしまった。

そして、2000年1月、住民投票が実施された。

投票率は55%。反対が10万票、賛成が1万票足らずという反対派の圧倒的勝利だった。

テレビ画面の真ん中で、ヒーローインタビューを受けていたのは、あの姫野氏だった。

「新しい時代が始まる。市民主導の政治だ。」

そうだ。今でも覚えている。確か、あれはニュースステーションで、久米宏氏が喜色満面で報道していたのだった。気色悪い、と思った気がする。

なぜいやな気持ちになったのかは、わからなかった。

ただ、この人たちに社会のかじ取りを任せていたら、きっとたいへんなことになる、と漠然と思ったのだった。

そこからの変化は急速だった。

第十堰可動堰化中止を掲げる革新派知事が出馬し、当選。保守王国と言われた徳島では、まさに異例の出来事だった。

可動堰化反対運動の主だった人々の多くが、地方議会に議席を得ていった。

そして、県内のダムや道路の建設計画が次々と中止された。

国からの補助金の流れはストップし、県内の経済は冷え込み、人の手足が先の方から壊死するように、何もかもが少しずつ悪くなっていった。

権力を握った市民活動家たちは、相も変わらず、吉野川の水鳥と政治家の汚職の話をしていた。

メディアでは、長野県の田中康夫氏が知事となり、脚光を浴びていた。さっそく、県政を透明化するために、ガラス張りの知事室を作ったのだという。徳島県でも負けじと知事室をガラス張りにするとかいう話だった。どうでもいい。

県内では、中小ばかりではなく、大手の建設会社も経営危機に陥っているのではと、ささやかれていた。建設会社の景気が悪くなれば、その作業員の需要をあてこんでいた地方の食堂なども潰れる。繁華街からも光が消える。21世紀の始まりは、ずいぶん薄暗い雰囲気だった。

そしてついに、半ばまで完成していた空港の工事までもが凍結された。さすがに皆が我慢の限界だった。

議会から不信任案が提出され、異例の革新派知事は失職。再び知事選が行われることになった。

対抗馬として、自民党は総務省出身の若く優秀な人物を立てた。県内のあらゆる選挙基盤が総動員された。酔夢から覚醒したような選挙戦が行われた。

中学校時代の忘れられない思い出がある。選挙運動期間中、通学のために徳島県庁前の「かちどき橋」という交通量の多い橋を通ったときのことだ。初夏のすでに少し暑くなりはじめた時期。

橋の西側歩道には、ずらりと、勝手連のシンボルカラーである黄色いTシャツを着た、市民運動家たちが並んでいる。革新派知事を支持する人々だ。だらりとした雰囲気で、隣の人と雑談しながら、「投票へ行こう」のプラカードを持っている。中には、持っているのがしんどくなったのか、地べたに下ろしてしまっている人もいた。

その反対側の東側歩道には、黒いビジネススーツを着込んだ若い男たちが、微動だにせず、「新しい風を・知事交代」のプラカードを掲げていた。貼り付けたような笑顔で、ぴしりと整列していた。

かちどき橋。徳島県庁前前から県警までを貫く、県都のシンボル。
たもとには、徳島県内国道のファーストナンバーである国道11号の道路元標がある。

あのビジネススーツの男たちがどこから来たのか、今でもよくわからない。だが、橋で対峙した二つの陣営の差が、とりもなおさず、「勝手連」で政治をしようとした人々と、政治に生き死にがかかったプロフェッショナルの差なのだと、中学生なりに肌感覚で理解したのだった。

選挙は、新しい知事が勝利した。革新派知事は失職した。

その後も、いろいろとあって、勝手連の運動家たちは議席を失っていき、政治の道からドロップアウトしていった。

私が小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』に出会ったのはそのころだった。市民運動や左派に私が抱いていた違和感を、言語化してくれたように思い、のめり込んだ。

そして、たまりにたまった疑問を、2chでいろいろな人にぶつけるようになった。

まあ、そうは言っても、まだまだ知識も少ないし、なによりつい最近まで政治に興味がなかった中学生なのだから……知識は未熟で青いという意味で「青識」、それから、論もまだ固まってないので、そうだな、未完成の論ということで「亜論」とでもしておこう。

そうして中学生ネット論客・青識亜論が誕生したのだった。

それから年月がたって……いまも私は青識亜論のまま、ネット空間でいろんな人に疑問をぶつけたり、議論をしたりを繰り返している。舞台を2chからTwitterに移し、いろいろと思想も変わったが、内側でくすぶり続ける「違和感」が、その原動力となっているのは間違いない。




2010年、姫野氏は、海部川での釣り中に遭難し、亡くなったのだという。

そして翌2011年、東日本大震災が発生した。「1000年に1度」の規模の大震災は、原発事故をはじめとした、想定外の被害を各所にもたらした。結果的に、多くの人命が失われた。

第十堰は当時のまま、美しい姿のまま残されている。

姫野氏が運動を通して守った水鳥は、今も、第十堰の青石の上でのんびりと羽を休めている。




貴重な生物資源である水鳥氏が羽を休めている

以上

青識亜論