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悟りに向かう7つのステップ⑤

前前回もそうでしたが、今回も難しい話です。
それは神秘的であったり抽象的だから難しいというわけではありません。
体験の話なので具体的すぎてやったことない人にはなかなかわからない、という難しさです。恐らくサッカーでも野球でも見たことのない人に専門用語を使わず説明してしっかり理解してもらうのは不可能に近いと思うんですよね。そういう不可能に近いことをやってしまっているので、わからなくても仕方ないですし、本当はやって体験していただくのが一番良いと思っています。

ステップ3見解の清浄 観察できるものは認識する働きと認識される働きの二つだけであると知る

いよいよ言語化の限界を感じそうなタイトルになってしまいましたが、なんとか説明していこうと思います。ステップ2.5でお話しした「私」以前の感覚に注意を向けられるようになるとどうなるでしょうか。
今まで感じることができなかった微細な心(認識する働き)が見えるようになってきます。通常我々が心と言っているものはほとんど観念で構成された思考のことで、仏教で観察する「心」というのは本来このような微細な働きのことを言います。
そしてそれらを観察していく中で認識可能なもの(本当に実在しているかのように感じられるもの)はこういった微細な認識する働きとその発端となる認識されるもの、いわゆる五感から入ってくるセンスデータ(感覚与件)だけであると知ります(正確にいうと仏教の場合五感に加えて脳の活動で自然に生まれてくる想念もここに含めます)

こう淡々と書くと全く伝わらないと思いますが、この認識は非常識なものです。普通人間というのは物質というものは本当にそのような姿形で「ある」と思っています。実際には自身が認知した情報を総合してそのように思い込んでいるに過ぎないとわかっていたとしても。
その「ある」が経験的に覆されてしまうような強烈な経験なのです。

よく宗教やスピリチュアル関係の人が「この世界はあなたの心が作った幻想です」みたいなことをいうと思います。それはある意味正しいのですが「それ本当に経験した上で言ってる?」と私はいいたくなります。「本当に心から100%の真実として経験した、目の当たりにしたリアルな現実として言っていますか?誰かの口真似ではないですか?」と。なぜなら上に書いたような見解の清浄の段階に達しなければそういった世界は経験できないのです。世の中の仏教徒の大半はこういう世界を経験としては知りません。観念として信じているだけです。無常も「苦」も無我もこういう認知の仕方を経過しないと真の意味で知ることはできないのです。

ステップ4 疑いを越える清浄 認識するものと認識されるものの因果的な継起が観える段階

微細な認知の働きを丁寧に観ていくとそれらが順に生起していく過程も含めて観えるようになってきます。そうすると自分という存在も含めて全ての存在(自身がこの意識で認知しているものは全て)はこのように(自分の意識上で)生起しているということを知るのです。

これは上にも書きましたが、このような経験は極限にリアルな経験なんですね。普通我々は目の前にあるもの(スマホとかパソコンだとか)を普通に「ある」ものとして認識していますが、それと同等かそれ以上のリアルさで意識上の微細な認識が生起する過程を観るわけです。そうすると仏教的な認識に疑いがなくなるのです。

ここまで来れば人によっては勝手に修行は進んでいきます。日常的な意識ではなくて「こちら」が真実の世界になるからです。

今回のお話は読んだだけで理解していただくのは本当に難しいと思います。体験しないとさっぱりわからない世界のお話なのです。

そんな話をここまで読んでいただき本当にありがとうございます。


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