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悟りに向かう7つのステップ⑥

これまで悟りへ向かう実践に関して一連の記事を書いてきたのですが、修行者にとって意味があるのはステップ2〜3の間の話で、個人的に2.5の話が一番書きたいものでした。そういった山場は過ぎてしまったので、今回の内容は実践的な意味というよりも、知識として気楽に読んでいただけたらと思います。

ステップ5 道と道でないものを知る清浄 悟りへの道を見定める

無常・苦・無我どれに着目するか

ここからいわゆる法(ダンマ)を本格的に観察していく段階なのですが、具体的に見つけていくのはいわゆる三相(無常・苦・無我)のうち一つです。
法、いわゆる真理のうちどのような側面に着目するか、あるいは着目する必要があるかによって修行の進捗が変わってきます。
無常に着目する修行者は恐らく数として一番を多く、見つけやすい分学習に時間がかかります。苦に着目する修行者はあまりいませんが、無常よりより早く学習が進みます。無我に着目する修行者はほとんどいませんが、うまくいけば一瞬で学習が進みます。

こういう違いがどこから生まれるのか。私の場合「苦」に着目するタイプなのでその立場から少し詳しく説明してみます。(あくまでこれは私の推察で経典や論書に則ったものではありません)
この違いというのは恐らく執着する対象の「広さ」あるいは「多さ」、そして一つの対象に対する「強さ」によるものではないかと思っています。

私の場合他人に全然興味がないんですね。物やなんかもこだわりがない。その代わり自分の身体や精神的な領域に対するこだわりや執着がすごい強いタイプでした。普通に生きていても苦しいと感じてしまうタイプで、どうしたら苦しまずに生きていけるかというのが一番の関心事だったのです。こういう人は三つの真ん中「苦相」に着目する必要がある。他のものではなく自分自身に対する執着を観ていきます。

普通の人はここまで極端ではないですよね。他人に興味を持つし、物も欲しい。自分以外にも大事なものが色々とある。そういう人は相対的に自分自身に対しての執着は薄くなります。自分自身の執着がないわけではないけれど、分散している分一つに対する執着は薄い。そういう人は「無常相」自分や他者、物などに対して満遍なく執着を観ていく。

逆に私よりもっと執着の対象が狭いタイプの人もいると思うんです。いわゆる哲学者の中でも自我とか「私」という存在に対してずっと考え続けている人がいますよね。そういう人は自分の身体さえどうでも良くて、自分の意識のあり方にのみすごく興味があり、執着もしている。そういう人は他のものに対しての執着はすごく薄くて自身の中での優先度が低いと思うんですよね。多分そういった哲学者の著作に自身の問題として共感できるような人も、そういうタイプに入ると思います。そういう人は「無我相」自分でも更に核となる「私」という観念に対する執着一点を観ていく必要があります。

仏教の実践の目的というのは一言でまとめるなら執着を断ち切っていくことなのでその対象の多さと強さの違いによってこういう違いが出てくるのではないかと思っています。

執着を断たない方向性?

長老方はどう仰るか分かりませんが、私は仏教以外でもステップ4まで進む人はいると思うんですよね。例えば精神世界とかスピリチュアルな思想を信奉する人が言う「見るもの」とか「純粋意識」とか「高次元の自己」とか「神の視点」というのはステップ3以降で生じる「私」のない純粋な観察意識を表現しているように思います。それと集中が高まった際に生じる自己の境界の曖昧化及び世界との一体感、あるいはより大きなものへの合一感が合わさって、そのような視点の獲得がいわゆる真我の実現(=仏教以前の教えの悟り)と表現されているのかな、と推察しています。
このような真我の実現を目的とする場合、渇愛や執着もありのままに神(あるいは仏などの超越的なもの)の現れとして肯定していく傾向があります。
これは当然仏教の教えからすると誤った方向性なのですが、多分こちらの考えの方が圧倒的に多数派なんですよね。寧ろブッダの執着を完全に断とうという方向性が世界の他の思想と比べても異端です。
だからなかなかその真価は理解されないし、仏教徒を自称している人たちからも敬して遠ざけられている気がします。
それをちょっとでも変えていけたらな、と思っているのですが…

読んでいただきありがとうございました。


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