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悟りに至る7つのステップ⑦

今回も実践というよりも知識の話となっております。気楽にお読みください。

ステップ6 道を行き知る清浄 執着からの厭離

法(ダンマ)の世界では微細な認識が刹那の生成消滅を繰り返します。最初はその世界に圧倒されていた修行者も徐々に落ち着いて見られるようになります。そうなるとやがて「生成」よりも「消滅」の方に注目するようになります。
認識する側から対象は消えていく、消えていく。しかもそれは通常の意識では考えられないほど鮮明で強烈な体験なのです。そこで修行者の心にはある感情が生まれます。敢えて詳細に書くことは控えますが、なぜこのような感情が生まれるかは簡単な理屈です。自己(だと思い込んでいた認識)が消えてしまうからです。それは主観的には自分の身体が損なわれるのと同等の経験なのです。

一つ書いておきたいのは、この一連の感情や心境の変化は修行者は冷静に観ているだけだと言うことです。客観的に描くのであれば辛い感情に思えるようなものが生まれても、主観的にはクールに観ているのです。逆にこのように観られなければ先には進めないでしょう。

やがて修行者は気づくのです。いくら執着しても仕方ないのだ、と。このような根源的なあきらめから「厭離(いとい離れること)」に至るならば悟りは間近です。

ステップ7 真理を知る清浄 悟りへ

執着を離れた心は悟りへと向かいます。

ここで説明したいことがあります。

なぜ悟りに至る段階を7つに分けなくてはならないのか。一発で悟れないのかと思う方もいらっしゃると思います。実際昔曹洞宗のお坊さんにそんなことを言われました。

「なんで一発で狙っていかないの?」

そのお坊さんは私が実際に会った日本のお坊さんの中でダントツにすごい方で、個人的には信用しているのですが、禅の観点から言うとテーラワーダの方法論は理解できても納得できないと言うのです。それに対して私はこう言いました。

「それは頓悟(一瞬の悟り)と漸悟(徐々に至る悟り)と言うものです。逆に言わ
せてもらえば日本の禅は頓悟しか認めなくなったから、あまり悟れなくなっちゃんじゃないですか?」

まぁこんなこと普通のお坊さんには言えませんが、その人を信用していたので言ったわけです。今なら生意気だなぁと思いますけれど…
相手のお坊さんは特に怒るでもなく「そんなもんかな」という感じで流されてしまったのですが、納得はしてはもらえませんでした。

歴史の話をするなら中国の禅には漸悟禅はありました。でも頓悟禅の方が人気になってそちらの考え方が日本にも持ち込まれたのです。まぁそう言っても臨済宗は段階的に悟っていく雰囲気があるし、多分曹洞宗の只管打坐を進めていっても少しずつ悟っていくというのもあると思うんですよね。結局個人が進めるようにしか進めないので、みんなが頓悟を狙っても難しいと思うんですよね。

では逆のもっとゆっくり生活の中で少しずつ気づきを得て悟るという方向性はないのかというと…
あることはあるんだと思います。そういうのを見つけるのが得意な人もいますし。ただ大体そこまでいく前に寿命がつきます。それは世界中に散らばったパズルのピースを見つけては埋めていくような気の遠くなる作業です。なのでピースが散らばる前の「根源」を観察した方が効率が良いのです。

これで仏教の悟りに至るまでのお話は終わりです。
ただ一つ書き忘れていました。仏教の「悟り」は一回で終わりません。
あと三回あります

読んでいただきありがとうございました。


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