「そこまでは言ってないんですが…」という最悪の返し
とある打ち合わせでの、悪気のない一言。
「いえ、そこまでは言ってないんですが...」
この返答、一見、穏やかに聞こえますが実は最悪の返しの一つです。
なぜなら、この一言で対話の可能性が閉ざされてしまうからです。
この一言で、どのようなことが(沈黙のうちに)起こっているのかを分解してみていきましょう。
全体像:よくある会議での一コマ
「プロモーションのメインキャラクターには、○○氏を採用しようと考えています」
「知名度があるのは分かるんだけど、彼って最近は、どちらかというと浮気報道で有名になっているよね?うちの会社のイメージを「プレイボーイ」みたいにしたいってこと?」
「いや、そこまでは言っていないんですが...」
「…はぁ、あえて聞くけど、このキャスティングの意図は何なの?」
こんなやり取り、見たことありませんか?
あるいは、自分で言ってしまったことは?
ぜひ、実際に自分が遭遇したケースを思い返しながら、読み進めてみてください。
理論編:なぜこの返しが生まれるのか
実は、このような返答が生まれる背景が説明できる、人間の認知の仕組みに関する重要な研究があります。
メンタルモデルという考え方
MITのピーター・センゲは、人々は各自の「メンタルモデル」(思考の枠組み)を持っていると指摘しています。
これは、物事を理解し、判断する際の「個人の中にある地図」のようなものです。
たとえば、ある人は「リスクは目の前のものから対処すべき」と考え、「まず足元を固めることが重要」と信じ、「現実的な対応を心がける」という思考の枠組みを持っているかもしれません。
一方で、別の人は「先を読むことが何より重要だ」と考え、「可能性は広く考えるべき」と信じ、「予防的な対応こそが本質的な解決につながる」という思考の枠組みを持っているかもしれません。
フレーミング効果との関係
さらに、ノーベル賞受賞者のダニエル・カーネマンは、同じ情報でも、それがどのような文脈(フレーム)で提示されるかによって、解釈が大きく変わることを実証しています。
これらの研究が示唆するのは、前提条件の違いがすれ違いを生んでいるという事実です。
例えばあなたが「現在」というフレームで話しているとき、相手は「未来」というフレームで話しているかもしれない。
前提を合わせるという段取りを踏まずに先に進んでしまったという手続きのミスがここには存在するのです。
現実編:この返しが引き起こす問題
端的に言うと、とてもヤバい影響がいくつもあります。
まず最も深刻なのは、コミュニケーションの遮断です。「そこまでは言っていない」という返しは、相手の思考の枠組みを全否定することになります。これは対話の可能性を閉ざすだけでなく、相手の貴重な視点を失うリスクも伴います。
(もちろん、「そんなことを言っていない」と返す人は、こう思うでしょう。「そんなつもりはない」と。)
次に、自分の時間軸や解釈にこだわることは、結果として自分の視野の狭さを露呈することになります。ビジネスにおいて、多様な視点や可能性を排除することは、大きな機会損失につながりかねません。
その結果として起こる2次災害が、信頼関係への打撃です。「話が通じない人」というレッテルは、組織内での信頼関係を著しく損ないます。特に、次回以降の建設的な提案や意見を躊躇わせる原因となります。
建設的な対応方法
対話を深めるための第一歩は、とにかく、前提を確認することです。
ビジネスの場では、時間軸をそろえることが一番分かりやすいですね。
「いつの時点の話をしているのか」「どのくらい先の話をイメージされていますか」といった質問を通じて、対話の基盤を作ることができます。
その上で、相手のメンタルモデルを理解しようとする姿勢も必要です。「なぜそこまで読む必要があるとお考えですか」「どんなリスクを想定されているのでしょうか」といった質問を通じて、相手の価値観や考え方を理解していきます。
そして、フレームの違いを認識したうえで、「もう少し詳しく教えていただけますか」「その先にどんな展開を想定されているのでしょうか」といった形で、対話を深めていくことが大切です。
そして、最も重要なことは「そこまで考えていませんでした」と、素直に指摘を認めることです。
あるいは、「考えてはいたが、優先度が低いと思っていた」など、自分の前提をしっかりと伝えることです。
冒頭の例も、例えば、こういう会話を続けることができたら、また反応が変わってきたはずなんですけれどね。
さいごに
「そこまでは言っていない」という返しは、実は「自分のメンタルモデルから外れている」ことへの条件反射のようなものかもしれません。
しかし、ビジネスの本質は、時に現在の延長線上にないものを見つけ、常識的な解釈を超えた可能性を探り、異なる時間軸や文脈からの示唆を得ることにあります。
だからこそ、異なるメンタルモデルを持つ人々との対話を大切にし、多様なフレームからの解釈を受け入れ、複数の時間軸での検討を心がける必要があるのです。
次に「そこまでは...」と言いかけたら、一呼吸置いて考えてみてください。そこには、きっと新しい可能性との出会いがあるはずです。
参考文献
『学習する組織』ピーター・M・センゲ著
『「対話」のことば』平田オリザ著
『論点思考』 内田和成著