望み

 詩には、人間や世界というものがみせる、さまざまな姿が顕れているような気がします。信仰、熱狂、沈黙、恋、愛、死、生、怒り、陶酔、喜び、かなしみ……挙げていけばきりがありませんが、それらはおそらく世界を鏡写しにしたものでしょう。私は、ずいぶん詩に助けられてきました。そして私を支えている詩人は、すでに死者となって私をめぐります。私はそれらの懐かしく、また生々しい彼らの話をしたいと望んでいます。

 例えば、中原中也、彼の飢えというものを思います。『別離』に見られる、、何か僕に食べさせて下さいというものは、本人はきんとんでもいいと言っていたとしてもそこに見られるのは絶望的な魂の飢えのように思います。彼は別の詩でも黒い旗を望むように見ていたり、あれは遠いい所にあるのだけれど、と呼ばれたなにかを、いまにもそれに向かって走り出しそうな衝動を抑えながら立ちつくしていたりする。

 彼をそこまで追いやった飢えや、渇望とは何だったのか、その具体的な事象は私にはわかりかねます。ですが、その飢えや渇望、さらには希望といったものにも繋がっていくそれらには、身に覚えがある、と思っています。

 真の夢は生活から産まれる、ということを、永瀬清子から考えたりもします。『弥生のもみじ』に見られる、あの健全な夢の美しいこと。考えてみれば、弥生のひとと私たち、あまりにもかけ離れた時代を繋ぐものは、まさしくいっしんな生活なのでした。

 茨木のり子の『歳月』はどうでしょう、彼女は生活や流行、一見俗らしいものが、形而上的なものへと繋がっていること、人生は汲めども汲めどもはかり尽くせない湖水であることを示した詩人であるとも言えるかもしれません。そのような彼女が、ひとりのおとこに向けて心から示した思いのたけが、私は大好きです。『夢』に見られる、あのたましいの交合のうつくしい描写を、私はずっと待ち望んでいたのかもしれません。また、そのような愛の生まれる場所を、私は未生以前から希望していたような気がします。

 立原道造について、考える時があります。彼をただキザな詩人と考えていた頃もありました。しかしそれは大きな間違いであると、今は思っています。なぜ、彼が天使という言葉を用いなければならなかったのか、なぜ、彼がリルケの訳をしようと思い立ったのか。私は彼のソネットよりも、その形の崩れた作品が好きです。そのような作品のなかには生の苦しみとあしたも生きるのだという気持ちがないまぜになって独特の燐光を放っているように見えます。

 すでにこの世におらず、しかしその一心さだけは世界に残していった懐かしい彼らの話を、私はなんどでも物語りたいと思っているのです。そのために詩を書いているところも、あります。詩はどこまでいっても辿りつけそうにない、ひとつの地点のように思います。

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