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小説「カサ」(バージョン2) 土居豊 作

※本作は、2014年12月4日の毎日新聞夕刊大阪版「掌の物語」に掲載された、土居豊の掌編小説『傘』の別バージョンです。

拙作が掲載された毎日新聞夕刊小説のコーナーは、主に関西ゆかりの錚々たる作家たちが、毎月一回、掌編小説を掲載しています。
以前の掲載には、
吉村萬壱、モブ・ノリオ、綿矢りさ、玄月、赤染晶子、安田依央、望月諒子、西加奈子、柴崎友香、有栖川有栖、難波利三、眉村卓、黒川博行、倉橋健一、藤野可織
など、本当にすばらしい方々が書いています。
また、毎回、挿絵を、アジサカコウジさんが描いています。

掲載作『傘』は、タイトル通り、傘がモチーフの童話的な物語です。
夕刊の小説にふさわしいような、ハートウォーミングな小説を書いてみました。
今回、note用の別バージョンとして公開したものは、細部が異なるだけで、大筋は変わりません。
どうか、ご笑覧いただけましたら光栄です。

小説「カサ」
土居豊 作
(1)
その日、きれいに晴れた冬の朝だった。
「ぱぱ、いってらーさーい」
「おう、いってきます。ジンくん、約束忘れるなよ」
「ぱぱ、やくそく、わすれるなよ」
父親は35歳、一人息子のジンくんは3歳と7ヶ月。やんちゃ盛りだ。
妻を亡くして1年、彼は一人息子と二人きりの生活に、ようやく慣れてきた。
仕事に行く途中、保育園にジンくんをあずけて、最寄り駅から満員電車に乗った。
約束というのは、この日が亡き妻の誕生日なので、夕方一緒に保育園の近くの公園で遊ぼう、というものだった。
妻が生きていたころ、保育園の帰りに、しょっちゅう公園で遊んだのだ。ジンくんは、そのことを憶えていて、また遊びたいと父親に訴えかけていた。
父親は、いつも仕事の帰りが遅いので、保育園だけでなく、夕方からはシッターさんを雇って、ジンくんを家に連れて帰って、夕食まで世話してもらった。
でも、妻の誕生日であるこの日ぐらいは、ジンくんの願いをかなえてあげようと思ったのだ。
けれど、よくあることだが、そういう日に限って、仕事のトラブルは起きる。彼は一人息子との約束の時間までに、帰れなくなりそうだった。

(2)
さて、ジンくんは、保育園に迎えにくるはずの父親を、門のところで待っていた。
でも、約束の時間になっても、父親の姿はみえなかった。
おまけに、冷たい雨が降り出していた。
ジンくんは、雨が嫌いではないが、傘もレインコートもないときにはそうでもない。
ジンくんは、保育園の屋根の下で、父親のお迎えと、雨がやむのを、両方待っていた。
すると、だれかが、傘をさしかけてくれた。
「あ、おばちゃん?」
ジンくんは、いつも自分を家に連れて帰ってくれる、あのおばちゃんだと思った。
でも、おばちゃんではなかったのだ。
傘だけだった。
ジンくんは、不思議に思ったが、とりあえず、傘が雨を防いでくれるのはありがたかった。
「パパ、まだ来ないんだ。どうしよう?」
ジンくんは、傘に話しかけた。
「じゃあ、遊ぼうか」
傘は、ジンくんを公園に誘った。
ジンくんは、誘ってくれたのがうれしかったので、公園まで歩いた。傘は、ジンくんが手に持つまでもなく、うまい具合に宙に浮いて雨を防いでくれた。
「パパ、どうしたのかなあ?」
しばらく遊んだあと、ジンくんは心配になってきた。
「じゃあ、お迎えに行こうか」
傘は、ジンくんをパパのお迎えに誘った。
ジンくんは、パパのお迎えに行けるのがうれしかったので、おおはりきりで歩きだした。
傘は、相変わらず、雨をうまく防いでくれていたが、今度は傘の柄がジンくんの手のひらにすっぽりと滑り込んできた。
ジンくんは、傘を持って歩くのも、嬉しかった。だから、いつの間にか、宙を飛んでいるのも、それはそれで楽しかった。ジンくんが不思議に思う間もなく、パパの仕事場の最寄り駅についていたのだった。

(3)
そのころ、ジンくんの父親は、その駅前で、ほとほと困りきっていた。
なにしろ、仕事が長引いた上に、電車が止まっていて、ジンくんを迎えに帰りたくても、帰れない有様だった。おまけに朝、傘を忘れてきたし、駅前のタクシーの列は残念ながらあと数時間は乗れなさそうな長さだった。
そこに、思いがけなく、ジンくんが傘を持って現れたのだ。
彼は、心底驚いて、ジンくんを思わず抱きしめ、高々と抱え上げた。
「パパ、むかえに来たよ」
ジンくんは、パパの腕の中で、真面目くさって言った。
「うんうん、助かったよ、ありがとうな」
ジンくんがさしていた傘は、亡き妻のものだった。だから、彼は、ジンくんがシッターさんに連れられて、家から傘を持って迎えにきてくれたのだ、と思った。
「あれ、……さんは?」
「おばちゃん? いないよ」
ジンくんは、当然のようにそう答えた。
ああ、自分を見つけて、ジンくんに「パパはあそこよ」と教えて、シッターさんはもう帰ったのだな、と彼はなんとなく納得した。
「じゃあ、帰ろう。公園はもう遊べないけど、ママのお誕生日だから、おいしいもの食べにいこう」
彼がいうと、ジンくんは、また当然のようにうなずいた。
「ジンくん、そうしようって言ったでしょ」
大人びた口調で、ジンくんはそう言った。
タクシーの長蛇の列から離れて、父子は手をつなぎ、駅前のレストラン街に入っていった。
傘はもうなかったが、二人とも、気づいていなかった。

(�了)

土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/