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父を亡くして思うこと

 文章を書く経験はないものの、この度どうしても書きたくなったことがああり、初めてnoteに投稿することにしました。

 近親者の死を当事者がどう受けとめるのか 考えたこともありませんでしたが、
4週間前の2022年9月はじめにに父が亡くなり、当事者になって気づいたことを書いてみることにします。

  私自身は九州の高校を卒業後 上京して30年以上が経ち、父との関係は濃いものではなかったものの、82歳で亡くなった父との関係・思いについてあらめて
確認したかったことも投稿の動機です。

 時間が経ち 落ち着いてくると 詳細のシーンを忘れていくと思うので、今は細かいことを残しておこうと思います。これが何かの役に立つかは考えず、まずは自分の気持ちを整理するために。

父が亡くなったときのこと

  5年ほど前に癌が見つかった際、医師の勧める外科手術ではなく温存する治療を選び、その1年後には癌が消えたと言って喜んでいた父。その後、骨折などで二度入院し、この7月に骨折が治り自宅に帰ってきた矢先のことでした。
 私が夏休みに帰省したときも「腕が痛い」というので 見よう見まねで父の腕をさすったりしていました。首・肩・腕はものすごく細くなっていて、なぜこんなに衰えが進んでいるのか不思議に思いましたが、82歳という年齢や入退院を繰り返していたこともあり、5日間なるべく父の近くでゆっくりと過ごすことにしました。
 私が実家から東京に戻った翌日に自宅に包括支援の方が来てくれ、この状況を案じて看護師を呼んでくださり、その後病院を受診したところ癌転移が見つかり あれよあれよという間に終末ケアの病院に入院することになりました。
 このコロナ禍で見舞いにいく時は毎回PCR検査での陰性証明を提示する必要があり、80代の母も3日に一度PCR検査を予約・受診し、通院していました。
   終末ケア病院に入り3週間目には血圧も60を切ることもあり、私もいつでも帰省できるようPCR検査を随時受けつつ 8月末に父に会いに行きました。
 私が地元の空港に到着したところ、母の友人と母が車で迎えにきてくれ(母は車の運転免許がなく、地元の友人が色々な送り迎えをしてくださっていた)、その足で父の病院へ。
 父は言葉がうまく出ないものの話は聞こえるようで、看護師さんが「東京からお嬢さんが帰ってきてくれましたよ」と父に声をかけ、私には「お父さんは、いろんな旅行の話を私たちにしてくれてますよ。イタリアでイカ墨パスタを食べて美味しかったという話も聞かせてくれたんですよ」など、父の話を丁寧に聞いてくださっていたようでした。父が話す言葉は聞き取れたり聞き取れなかったりでしたが、話終わると話が終わったことを伝えるために手でOKマークを作って意思表示していました。
 母が「お父さんは古関裕而さんの曲が好きなんだよね」と言うので、私がスマホのアプリで曲を調べてみたところ、あの甲子園の馴染みの曲を見つけ(『栄冠は君に輝く』)、その曲を流しながら1時間半ほど父の近くにいることができました。
 目を瞑ったままの父を、母が「目をあけて!」と言って無理やり目を開いたところ、そこからはずっと目をあけて、私のこともわかってくれたようでした。私はというと、父が前に痛いと言っていた肩・腕をさすりながら、看護師さんの朗らかな声を聞きつつ、曲が聞こえているだろう父の顔を見ていました。落ち着いた状態が続いていたので「明日また来るね」と言って部屋を出ましたが、父の目はずっと開いたままだったのをなんとなく覚えています。

 その翌日の明け方に、病院から血圧が測れない状態になっているのですぐ来るよう連絡があり、母と向かったところ、すでに息を引き取っていました。

父と私の距離感

 戦前に生まれ七人兄弟の末っ子だった父。幼くして父を亡くし、母と兄弟と満州から帰国して苦労があったことは父の口から聞いていました。その後 本田宗一郎が好きで本田技研に勤め、エンジン製造や金型製造など もの作りに心血を注いでいました。私が子供の頃は自宅で製図をすることもあり、うっかり近くで騒ぐと怒られる怖い父、そんな印象がありました。
 仕事柄、整理整頓を旨とし、自宅でも子供たちに「整理整頓とは、いるものといらないものを分け、いるものはいつでも取り出せるようにしておくこと」という言葉を覚えさせたことも。
 日曜大工も好きで勉強机や椅子、棚などを作っては、作成日・かかった費用を作品にテプラで貼るなど 細かいことをしていました。色々と窮屈に感じた私は高校を卒業すると進学して上京することにし、それからは年1回帰省するかどうかになりました。
 たまに帰省すると「今どんな仕事をしているのか?」と聞かれることがあり、何かを産み出したり、役に立つことが出来ないといけないのかも、と心苦しくなることもありました。(私が経理の仕事をしていた際、経理とは広く・奥深く・外向きの仕事だと父に話したときに、納得したような顔をしていたのを覚えています。)

 父は定年間近でタイに赴任したことをきっかけに東南アジア諸国が好きになり、定年後はJICAでカンボジアでのボランティアや、東南アジア諸国からの研修生のホストファミリーになるなど、精力的に活動していました。
 その頃私も海外旅行をすることが多くなり、帰省時の話題は海外での面白おかしい体験話やその土地で感じたことをお互いにするようになったことや、私自身が上京して自分一人の生活を整えるのに精一杯で、三人の子供を育てた父の大変さを少しずつ理解するようになってきたことで、父との関係が近くなっていきました。

葬儀を通して知った父の後半人生

 父が亡くなった日に、かねてから契約していた葬儀社の方に来ていただき、通夜・告別式の準備を始めました。生前父は自分の葬儀について、弔辞を読む方を数名決めて事前にお願いしていたそうです。遺影の指定はなかったので あれこれ迷いましたが、母と一緒にエッフェル塔を背景にした写真の顔がとても楽しそうで、それをうまく加工してもらいました。
 葬儀は基本的には家族葬とし、来ていただける方はありがたくお越しいただく形を採りました。結果的に父の仕事仲間、ご近所のみなさん、旅行仲間、父が作った地元の「呑んべいの会」の方々、私の姉弟の職場の方や友人など驚くほど多くの方にご会葬いただきました。
 葬儀の受付も 仕事仲間 兼 地元の友人が三名も対応してくださり、通夜の時にお三方から父の色々な話を聞くことができました。「呑んべいの会」とは父が地元の仲間と顔が見える範囲で楽しい時間を過ごす場として始めたもので、春は花見、秋は月見にかこつけてよく開催していたとのこと。「あの月見の時は突然雨風が吹いて大変だった」などと懐かしく楽しそうに話されるのを聞いて、父にそんな社交性があったこと、私がイメージしている父とは違う像を知りました。
 またある方は、タイ赴任のあとはアメリカ赴任を打診したがアメリカは遠いのが嫌なのか断られた、という初めて聞く話もしてくれました。その他、日曜大工では近所の方のお宅のちょっとした不具合も直しに行き、まめで丁寧で助かったという話もありました。
 葬儀会場の入り口に父が在職中に作ったエンジンや各種模型、母と毎年海外旅行で撮った写真を展示したのですが、多くの方がそれを見てくださっており、私は思わず 一度も話したことがないその方々に声をかけ、その場で父の話を聞かせてもらいました。
 通夜では 私は棺から見える父の顔に手を触れ、それを見た小さな姪も一緒に手を伸ばし、親戚と一緒に父のあれやこれやのエピソードを思い出しながら過ごしました。通夜も告別式もたくさんの方からお話を聞かせてもらい、父の豊かな後半人生を聞くことができ、故人をおくる儀の意味を知り、父と親交のあった方々への有難さを身に染みて感じたのでした。
 

葬儀・その他の手続きと今の気持ち

 葬儀にあたっては、葬儀社の方が細々としたことを短時間の中で教えてくださり、具体的なことを何も知らない私たちにとっては大変助かりました。ご担当者の名刺には「一般社団法人 終活カウンセラー協会 終活カウンセラー」と言うタイトルがあり、混乱している遺族に丁寧に対応するだけでなく、法事のスケジュールや意味もきちんと教えてくれました。
 父は仏壇もお墓も生前に用意し、今年になってからはお世話になるお寺を決め その住職さんに自分亡き後のことを伝えていたとのこと。葬儀の後日、自宅を整理していたところ、別の葬儀社の名刺と見積もりが出てきて、葬儀についてもあれこれ考えていたことがわかりました。
 父が望んでいた葬儀ができたかどうか母と話したときに、「こんなにお花はいらない、華美だと言われるかもね」と母が笑っていました。それでもたくさんの花、恩人、思い出をもっておくることができたことは良かったと思っています。

 仏教では 人は亡くなると 初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、で審判が行われ、七七日(四十九日)を過ぎると成仏するそうです。真面目で精一杯生きた父が裁かれることはなかろうにと気の毒に思います。
 今はまだ父のことを思い出しては涙が出る日々で、もっとやれることがあったのでは、いや やれることはやった、という思いが行き来します。
 それでも四十九日には父が弔辞をお願いしていた二人目の方が来てくださるとのことで、有難くもあり どんな話が聞けるのか少し楽しみにしています。

 父の死をきっかけに『歎異抄』を読み始めました。
 父亡き後の母の生き方、その支えについてはまた別に書いていきたいと思います。

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