長夜の長兵衛 菖蒲華(あやめはなさく)
水澄
鼻歌まじりに、源兵衛は山道を降りてきた。あやめの青紫はなにものにも変え難い。
反物屋を早々に隠居して、染め物三昧の日々を過ごしている。神さんか仏さんがお作りになった色をいじるのは不遜な気がしなくもないが、やめられぬ。
いや、染め物とは色だけではあるまい。山の、水辺の、集う花も風もすべてぱあっと目の前に浮かぶようなもの。
地蔵さんのおられる辻を越え、川べりへと差し掛かると、今度はかきつばた。
いずれあやめかかきつばた。自分でこしらえた節まわしで、朗々とうたってみる。
ぽつ。
ぽつり。
降り出したようだ。
小さな円がいくつも、花のまわりに、むこうにと生まれては消えていく。
一つの円だけが、あちらへこちらへ、と動きを繰り返しておる。見つめる源兵衛に、笑みが浮かぶ。
庵へ戻ると、丁寧に墨を摺り、大ぶりの紙の前に座る。筆には迷いがなく、一気に水辺のありさまを描きあげる。
この黒点、水澄と見破るであろうかな。
長兵衛さんなら、もしや。
<了>
pixabay AC by jplenio
本年の菖蒲華は6月26日~6月30日頃。
遅れても遅れながらも続きます!
こちらからは、ビューワー設定により縦書きでご覧いただけます。
また、以前に執筆しました二十四節気の物語と、今回の七十二候が順に並んで出てまいります。
長兵衛をお楽しみいただきやすくなっているかもしれません。
お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。