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長夜の長兵衛 鴻雁北(こうがんかえる)

花筏はないかだ

 吉野の山桜は、夢かうつつかわからぬほどの見事さと聞きおよびます。行者ぎょうじゃさんの御神木だけのことはあると。
 久兵衛は猪口を盆に置く。
 相手のことは知らぬ。たまさか蕎麦屋で同じときを過ごしている。
 ご覧になったことがおありとは、羨ましい限りですな。
 久兵衛の頬は、ほんのりと赤らんでいる。
 これも何かのご縁、勘定はわしが。さあ。
 
 鼻歌まじりに久兵衛は歩く。
 随分と散ったのう。源兵衛川に幾つも、花筏が浮かんでいる。
 その間をひょこ、ひょこと歩いているものがある。
 おい、長兵衛。そんなところで何をしておる。
 其奴はきっ、と首をすくめ。
 なんだ、お主らしくもないの。
 其奴は。
 飛び去ってしまった。
 小鷺こさぎではないか。久兵衛は笑い出した。

 どうなさいました。
 長兵衛に声をかけられ、久兵衛はしげしげと顔を見やると、もうひとしきり笑うた。
 いや、小鷺が花をでおったものでな。

 かりは、見向きもせず帰っていきましたな、と長兵衛はこたえた。
 

<了>

 

photo AC  by 木漏れ日

 春の初めの歌枕
 霞たなびく吉野山 
 鶯、佐保姫、翁草
 花を見捨てて帰る雁

梁塵秘抄



 
 本年の鴻雁北は4月9日~13日頃。
 遅れながらも続きます!



 こちらからは、ビューワー設定により縦書きでご覧いただけます。
 また、以前に執筆しました二十四節気の物語と、今回の七十二候が順に並んで出てまいります。
 長兵衛をお楽しみいただきやすくなっているかもしれません。



お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。