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【ピリカ文庫 (2022)】 ジョンとヨーコのI love you 



 彼は皆からジョンと呼ばれている。本当の名前を尋ねてみたことはない。私もヨーコと名乗ってはいるけれど、本名は誰にも言ったことがない。世の中にはそういうことがあるものだ。
 デパートの立体駐車場で、ジョンと落ち合う。一階はいつも満車だし、店内直結通路のある五階も車が多い。三階あたりがちょうどいい。シルバーのボディが入道雲を映しながら走る。国産のセダンはおしゃれではないけれど、安心できる。
「美術館。フェルメールが何枚か来ているようよ」
「絵は好き?」
「あんまり」
「俺も」
 二人で顔を見合わせて吹き出した。

 冷房の効いた館内は、あまり広くなかった。たしなみとして鑑賞しているふりをするから、正直なところ助かる。ジョンが手を振るので階下のミュージアムショップを覗くと、私のマンションの真下に住んでいる老婦人が、ポストカードを選んでいるところだった。女性が牛乳を注いでいる、私でも知っているあの有名な絵。彼女はそれを十枚手にとった。
「折角なら、全部違う絵にすればいいのに」
 車に戻ってから私がそういうと、
「世の中にはそういうことがあるものだ」
 ジョンはすまし顔だった。遠くでとんびが笑った。


 八月某日、ジョンに急いで知らせたいことができた。これは私たちの将来に関わる、極めて重要なことだ。電話やメールではなくて、直接伝えた方がいい、絶対にいい。
 でも、時間がない。二人だけで会う手はずを整えている余裕がない。
 ショートメールを送信する。ジョン、あなたを信じている。
 「I love you の I love you」
 絶対にわかってくれる。
 
 その翌日の昼は、ジョンも私も遊び仲間のホームパーティに誘われていた。ねえお願いよ、ジョン。
 ナツオの部屋にぱらぱらと人が集りはじめる。ちらりと視線を寄越すナツオ。
「ヨーコ、ワインどう」
 ナツオの触ったものはごめんだ、こっそり何か入れてたって驚かない。そんな奴。
 自分で差し入れに持ってきた缶ビールを、あ、やっぱりオレンジジュースを開けよう。
 甘いイントロに続いてスピーカーから音が流れ出た。

 I love you
 今だけは悲しい歌聴きたくないよ
 I love you
 のがれのがれ辿り着いたこの部屋 

I love you: 尾崎豊

 ははあ。


 流されて流されて僕のところへ
 切ないねあなたの白い肌
 ああ早く九月になれば 

I love you: オフコース(小田和正)

 そうね。
 私が目を泳がせると、
「ジョン、まだ来ねえな。なあ、あいつ尾崎とオフコースが好きだよな」
 ナツオは、ねめまわすように私を見た。

 I love you  I love you I need you
 どうして僕の心だけ奪ったまま
 叶わない願いなら さよならを告げて 

I love you: クリス・ハート(作詞 H.U.B., 坂詰美沙子)

「ジョンはこれも好きよ」
 歌ってみせると、ナツオは目を丸くした。
 なんてつまんない男。
 そもそもバカなんじゃないかしら、フェルメールのポストカードを壁に貼ってるなんて。あの‘ ‘、女性が牛乳を注いでいる絵の。

 ジョンは姿を見せなかった。食べかけの西瓜が冷蔵庫に四分の一残されたまま。その行方はようとして知れなかった。
 ジョンのいない一年を過ごして、私もまた皆の前から姿を消した。



「で、そのポストカードには、I love you  の I love youって書いてあったというわけか」
 ジョンは愉快そうに笑った。
「そのとおり。あのご婦人がうちにカメラや盗聴器を仕掛けてるのは知ってたし」
「オフコースのI love youだ、ってところまでは奴らにもわかったんだな」
「そう。でも、バージョン違いがあるとは知らなかったのね」
 この曲には二つのアレンジがある。シングルカットされたものと、アルバム " I love you" に収録されたもの。
 対抗組織がジョンの命を狙っていることを知って、すぐに警告しなければと思った。そこでジョンに、I love you の I love you、と知らせたのだ。このバージョンでは間奏に、ジョン・レノンが撃たれて亡くなりました、という英語ニュースが流れる。
「ナツオが流したのは、ベストアルバムだった。暗殺計画がこっちへ漏れていることに、奴らは気付いてないと確信したわ」
 ベストアルバムにはシングルカットバージョンが収載されている。こちらの間奏に流れるのは、聞き取れないほど小声で無意味な男女の英語だ。
「私が曲に合わせて目を泳がせてみせたから、奴らは、九月になればこちらが作戦を開始する暗号だ、と誤解した」
「さすがヨーコ。おかげで俺はすぐに出国して身を隠せた」
 ジョンはにっこりした。
「ねえ、空港で迎えてくれたのにはびっくりしたわ」
 私が誰にも知らせず到着したのは、ジョンが消えた次の年の九月一日だ。

ああ早く九月になれば

I love you: オフコース(小田和正)

 ジョンはそう口ずさむと、私にキスした。
 私たちは最高のバディだ。
 いや、それ以上かな。世の中にはそういうことがあるものだ。

<了>


 お題「九月」でした。
 ピリカ文庫、いつもありがとうございます。こちらへ作品を入れていただけるのは、もう無上の喜びとするところです。



 【マニアのための解説】
 
 こちらがI love you  の I love you。



 

 こちらが、シングルカットバージョンのI love you。オフコース自身が作ったベストアルバムより。
 

 このあと、「i(ai)  Best of Off Course」「Off Course Best "ever" EMI Years」という二枚のベストアルバムが出ますが、シングルカットバージョンが使われています。これらのアルバムは公認ではあるものの、オフコースは作成に関与していません。

 

 小田和正が自身で作ったベストアルバムに収録されたI love youは、ガラッとアレンジが変わります。
 
 ああついに、オフコースを小説に登場させてしまったわ!!!

お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。