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映画評:リメンバー・ミー

『リメンバー・ミー』の録画を見た。さすがディズニー&ピクサーということで、見事なエンターテイメントだった。正直な所、ツッコミどころのある作品の方が、鑑賞後にワーっと書きたいことが湧いてくる。でも最近は「良いと感じたものの良さを語るほうが大事なことだよなぁ」と思うので、感想をひねり出してみたい。

エンタメとしての良さ

作品の舞台はメキシコのとある街と、死者の国だ。メキシコでは年に一度、死者の魂が返ってくる日があるようで、日本人としては親しみを覚える。死者の国は圧巻の美術で緻密に描かれており、世界にどっぷり浸ることができる。死人たちが楽しく過ごしている一方で、「第二の死」という影も存在している。それだけでなく、出国管理などではお役所的な手続きが営まれており、人間は死んでもそういうのをやめられないのだなとクスリとさせられる。

ストーリーとしては起承転結がしっかりしていて、意表をつく仕掛けもあり、山場での盛り上げもうまい。だからストーリーの完成度については「高い」と一言コメントする以外に無いだろう。

作品のテーマは何だったか

この作品のテーマは「個人の人生と家族との関係」だろう。主人公はミュージシャンになりたい少年だが、家族は代々音楽に触れることを禁止している。主人公の祖母の祖母(イメルダ)が、夢を追うミュージシャン(アーネスト)に不幸にさせられたからだ。

だから、序盤は夢を追う主人公と、音楽との関わりを徹底して排除しようとする家族との対立構造が描かれる。ここでは、「抑圧を与える存在」としての家族が描かれる。

主人公は死者の国に迷い込み、家族から復活の許しを求めることになる。ここで、主人公はイメルダからではなく、アーネストから復活の許しをもらおうと、死者の世界を冒険することになる。主人公は家族を捨てて音楽をとったアーネストに憧れるのだ。受けてきた抑圧の反動もあり、主人公は家族よりも夢の方がよっぽど重要だと感じているのだ。

後半になって、どんでん返しがおきる。アーネストは実の家族ではなかった。イメルダの夫は、死者の世界においてロクでなしのアウトローとして描写されていたヘクターだった。叙述トリックというやつだ。

ヘクターはアーネストとコンビで音楽活動をしていたが、ヘクターは音楽よりも家族を優先したいと決断した。ヘクターの楽曲がないとやっていけないと判断したアーネストは、ヘクターを殺害し、彼の作曲ノートを手に入れ、スターとなったのだ。

終盤、アーネストは醜悪な悪役として徹底的に描写され、主人公は「ヘクターが家族で良かった」と告げる。

ここまでを切り取ると、「家族は夢よりも大事」という話のようにも見える。しかし、ストーリーの随所で、音楽という存在はとても魅力的に描写されている。主人公とヘクターが一緒にステージで歌うシーン、音楽を嫌っていたはずのイメルダが観衆の前で歌うシーン、そして主人公が曾祖母の前でリメンバー・ミーを歌ってみせるシーン。当たり前だが、音楽という自分の夢を追う事自体は、否定すべきことではないのだ。

そして、ラストシーンはクライマックスから1年後、死者の魂が返ってくる日が再びやってきて、主人公は家族と一緒に楽しく歌う。ここでいう家族には、死者の世界から返ってきたヘクターたちもいて、最高のハッピーエンドになっている。

夢を抑圧する家族は素敵な存在じゃなかったし、家族を蔑ろにして夢を追った人間は魅力的ではなかった。でも家族と一緒に楽しく歌うのはサイコーだ。要するに「夢は大事だが、家族を犠牲にしてまで追うのはバランスが取れていない」とか「個人は家族を大事にすべきだし、家族も個人を大事にすべきだ」という結論なのではなかろうか。

陳腐な結論にも思えるが、真実が陳腐なことなんていくらでもある。ましてや、現代社会で必死に生きているうちに、いつのまにか陳腐な真実を見失っていることも少なくない。だから、メッセージとして発する意味はやっぱりあるのだろう。


追記:例によって、視聴後に何も調べごとをせずに感想を書いている。記事の投稿後に以下の記事を見た。

小野寺系氏のレビューはとても信頼しており、このレビューも大変参考になった。この作品の解釈は、アーネストとヘクターの対比に何を見出すかにあるような気がするが、小野寺氏はここでグローバリズムと伝統の対立軸を見出し、アメリカの時代背景と結びつけている。

自分は作品内の要素だけで解釈をしようとしてしまうが、映画はどうしても時代の影響を受けるものだし、ポリコレへの配慮なども要求されるようになっている。そちらの角度からも深く考察できるようになっていきたいものだ。