西研『しあわせの哲学』(1/2)

「幸福の条件」というのは、誰にとっても関心のあるテーマだろう。

人間は幸福を追い求めるものだ。しかし、「どんな条件が満たされれば人は幸せな人生を歩めるのか」と問われると、なかなか難しい。

自分にとっては「仕事のやりがいとか、家族との時間、個人の趣味の時間などがバランスよく得られること」が回答になりそうだ。しかし、人によっては「仕事のやりがいなんて存在しない」という立場をとることもあるだろうし、「個人の趣味の時間」こそが最重要という人もいるだろう。

しかし、「人それぞれ」で終わらせるのは、テーマの重要性に対して大雑把にすぎるだろう。「ここまでは普遍的に言える、その先は人それぞれ」というラインまで整理しておきたいものだ。

そんな興味のあるテーマについて、一度読んでみたかった著者の本が、Kindle安売りセールで売られていた。条件が揃いすぎて、即刻ポチってしまった。

本書は、NHK出版の「学びの基本」というシリーズの一冊で、極めてコンパクトにまとめられている(※)。文章もとても読みやすく、あっという間に読めた。しかし、さすがに哲学の話ということで、なかなかの濃密さだった。アホみたいに長くなってしまったので、本記事では要約を、次の記事では自分の雑感という形で分割する。

①人間は未来を意識できる

動物は「今ここ」を生きているが、人間は過去と未来についても思考できる。これは、言語を獲得することで、複雑な思考を積み上げられるようになったためだ。

未来について思考できるため、その未来が明るいものでないと感じると不幸になる。キルケゴールによると、絶望には可能性のみが唯一の救いであるそうだ。この可能性とは「したいことがあり、かつそれをできること」を指す。

ルソーは「欲望と能力とのあいだの不均衡のうちにこそ、わたしたちの不幸がある」と指摘した。したいことがあるのに、それができないこと。

②未来を志向することは、目先の我慢を正当化する

ここで著者は、バタイユの「蕩尽」に言及する。

未来を見据えると、「将来のために我慢すること」が客観的にみて適切な選択肢になってしまうことも多い。そのため、人間は我慢する存在になってしまった。例えば、将来を見据えて勉強するとか、未来を快適にするために労働をするとかだ。

そして同時に、我慢している自分を解放する「蕩尽」を欲するようになった。つまり、「いま・ここ」をとことん享楽する時間を必要とするようになったのである。

③未来を志向して取り組むことのなかにも、ある種の喜びがある

バタイユの描いた、「未来志向→我慢の正当化→自己の解放としての蕩尽」という図式には説得力があるのだが、未来に向けて取り組む過程のなかにも幸福はあるはずだ。著者は以下のように述べる。

「こういうことをしたら面白いぞ」「こういうことをしたらみんな喜ぶぞ」と考え、企画を立てて、仲間たちと何かを作り上げていく。そこには努力も工夫も必要になりますし、ときにはしんどいこともあるかもしれない。しかしそのような積み重ねのなかから生まれる喜びがあることを、私たちは経験として知っています。そこには創造の喜びがあり、協力しあう喜びがあるでしょう。
<中略>そして実現したことをまわりの人たちが喜んでくれたら、そのこともまた大きな喜びとなり、誇らしく思えるでしょう。<中略>また、こう考えてみると、「がまん」にも積極的な意味があることがわかってきます。ただ単に「がまん」せざるを得ないとすれば、確かに苦しい。しかし実現したい目標のために、遊びたい気持ちやのんびりしたい気持ちをがまんして、エネルギーを集中していければ、達成感と誇らしさを得ることができます。

このように、人間は何かをしたいと感じ、その達成に喜びを感じる。だから、未来に向けた行動を単に「がまん」とみなすのは不十分な議論だ。

それでは、人間は何をしたいと思うのだろうか?

④人はまず基盤の確保を求め、次に「承認」と「自由」を求める

人が第一に求めるのは、生命・健康の維持や収入の確保だ。それらが脅かされることは、生命の根源的な危機につながりもするし、可能性の喪失という形で不幸を呼び寄せる。

しかし、それらは自分の可能性を追求する上での前提だ。インフラのようなものであり、それ自体が人生の目的というわけではない。

生命・健康・収入を確保したあと、人は何を求めるだろうか。著者が行ってきた哲学対話の結果からは、「承認」と「自由」の2つが導き出される。

以降、その二つを具体的に見ていくことになる。

⑤愛情的承認・評価的承認・存在の承認

著者は、承認を3つに分類する。この辺りの内容が特に重要と感じているので、ここからは丁寧にまとめる。

愛情的承認:家族、恋人、友人などによる承認。能力や成績がいいから認める、という条件付きのものではなく、無条件の承認。大切な喜びの源泉であると同時に、何かに挑戦をするための大きな支えにもなる。

評価的承認:褒められたり、自己を価値あるものとして他者から認められるような承認。この承認を得るには、成績やスポーツでの勝利を収めるような「競争関係における承認」勝ち取るか、仕事や団体競技などで、チーム内での役割を果たし、「良い仕事をしたね」、「助かった」という評価をもらう必要がある。

子どもは愛情的承認をベースに、成長に伴って評価的承認の世界を拡大していく。そして、評価的承認のなかでも、競争関係における承認から次第に役割関係における承認へと軸足を移していくことになる。

存在の承認:その人がどんな「想い」をもって生きているかを認め、尊重されること。「一人の人間としてもつ想い」を値踏みなしに認めること。

「愛情的承認」や「評価的承認」は存在の承認を含んでいる場合も、そうでない場合もある。「愛する子どもだから」というタイプの愛情的承認は、子ども側が抱いている想いを理解していないくても向けられる。学校の成績や仕事の成果から評価的承認を認めていても、その背景にある想いまで含めた存在全体を承認されているかというと、必ずしもそうではない。

⑥自由であるという感触を得るのは「探索」「創造」「成長」「解放」の場面

次に著者は、自由についても整理する。ここで、自由という言葉の定義について、「自分がしたいことをしたいようにしているという感触があること」としている。

では、人はどのようなときに、そのような自由の感触を得るのだろうか。著者は、以下の3つのケースを自由の感覚を得る典型的な場面としている。

探索:新しい世界、未知のもの、興味あるものを探索するとき。
創造:何かを企画し、エネルギーを投入して実現するとき。
成長:これまで出来なかったことを、出来るようになったとき。

加えて、試験が終わった後のごろ寝など、義務から解放されたときにも自由を感じる。これは努力や創造性に乏しいかもしれないが、心身を解放する点で大切な自由である。

⑦承認と自由は衝突しうる

幸福に生きていきたいと願うのであれば、「承認」と「自由」の両方を満たすことが望ましい。ところが、承認と自由はしばしば衝突する。

自由に探索・創造・成長をしていこうとするなら、周囲の要求とは異なる方向性で行動してしまうこともあるだろう。それを周囲は「期待を裏切った」と受け止めるかもしれない。

そうすると、周囲は自分に対する評価を下げてしまう。つまり、幸福の重要な要素である評価的承認が得られなくなる。

一方で、評価的承認を失うことを恐れ、周囲の期待に合わせようとしすぎるなら、「自分の意志で選び取っている」という自由の実感は失われていく。

⑧承認と自由を調和させるために

自由と承認にはポジティブな相互作用を見出すこともできる。
例えば、承認が自由につながるケースとして、「自分の存在が承認され、見守られていることで、自由な活動を発展させられる」という形がある。これは乳幼児を対象として理論家されているものではあるが、青年や大人についても同様のことがいえるようだ。

一方で、自由が承認につながるケースとして、「自由な活動の結果、充実したアウトプットにたどり着き、周囲からの評価的承認につながる。」という道筋もあるわけだ。

だから、自由をとるか、承認をとるかという二者択一を想定するのは誤りである。

とはいえ、自由な活動は、集団の目的やルールと衝突しうる。つまり、自由を求めて承認を失うケースも、やはり実際に存在する。

そこで重要になってくるのが対話である。対話を通じて、自分のしたいことと、周囲のしてほしいことを調整すれば、対立は解消しうる。そもそも、このような対話が難しい場所では自由と承認を調和させることはできない。

⑨望ましい対話とは

ここでいう対話とは、言葉を通じて相互の「想い」を受け止めあうことを意味する。そのような対話を実現するうえで重要なのは、尋ね、確かめることの繰り返しだという。

「このあたり、もう少し詳しく聴かせてもらえませんか?」
「あなたが言いたいことはこういうことでしょうか?私の理解はあっていますか?」

このようなやりとりによって、相手の考えていることを「想い」のレベルでキャッチできる。相互の想いを丁寧に汲み取りながらの対話を行っていくことで、先述の通り、自由と承認を調和させることが可能である。

加えて、このような対話を繰り返すことは、以下のような結果も生み出すのだという。

・他者を理解する経験を積み重ねるうち、様々な人間がそれぞれの想いを持って生きていることが実感をもって理解できる。すると、自分はたくさんの人間の中の一人(one of them)だという開けた意識を持つことができる。
・何が価値あることなのか、何が大事なことなのかが明確化していく。
(ヘーゲルの事そのもの)

⑩望ましい対話は、自分の軸へとつながっていく(ヘーゲルの「事そのもの」)

対話を繰り返すことで、何が価値あることなのか、何が大事なことなのかが明確化になっていく。これは、明確な「自分の軸」をもって生きることにつながり、幸福において重要である。

この軸について、本書ではヘーゲルの「事そのもの」を通じて解説している。以下にまとめよう。

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人はそれぞれの感性を持っており、様々な物事に対して「これは良いな」「これは好きじゃないな」といった感情が自然と湧いてくる。

この素朴な感情を細やかに捉え、「自分はどこが好きなんだろう」、「どこが嫌なんだろう」と自問して言語化していくことが重要だ。そうやって自分の中の感受性を認識して育て、より明確な価値観を形作っていくことが文学であり批評である。

誰かが自身の想いを表現する。表現物に触れた人々が、自分の抱いた想いを見つめ、考え、そして語りあう。すると、人によってバラバラに出てくる要素もあるなかで、その中から「ここにはほんものの文学がある」「これが本当の小説というものだ」といった具合に、誰もが認めるものが出てくる。

そうやって、共通の了解として見出される「理念」を、ヘーゲルは「事そのもの」と呼んだ。

人が努力しながら、ある実践をおこなったり作品をつくったりする。受け手はそれを批評する。この積み重ねのなかで、人々の心のなかに結晶してくるもの。それが「事そのもの」、ほんとうの文学、ほんとうの医療、ほんとうの教育だ、というのです。
たとえば医療に携わる人が、患者さんにとってほんとうによい医療を提供したいと願って日々実践し、それについて医療者どうしで語りあい、患者さんの声を聴く。そういうことの積み重ねのなかで、医療者のなかに「こういうのがよい医療というものだ、この点を欠いたら医療として失格だ」という明確な信念が生まれてくる。その信念は個々の医療者によってある程度の幅があるでしょうが、まったくバラバラなものではないでしょう。「事そのもの」とはこのような信念のことなのです。

このように、望ましい対話が行われていけば、「何が価値あることなのか」という軸が自分の中に出来上がっていく。そして、その価値あること(=事そのもの)を目指すことに確信と誇りを持てるようになるのだ。

長くなった。ここまでの議論を具体的にまとめるような一節を引用して、要約の終わりとしよう。

互いの想いを受け止めあう対話を通して、互いの存在の承認が得られること。それを土台として、「ほんとうによいこと、人びとが喜んでくれることは何か」を考えて語りあい、それをめざして実践する。その実践をまわりが受けとめて真摯に批評してくれる。こうした過程を通じて「事そのもの」を信じながら生きていく。そのような生き方にこそ、私たちが承認と自由の両立に向かう道筋があるのだと思います。


※最終章である、ニーチェの永劫回帰を絡めた話は要約しなかった。手前までの議論で十分に完結しているように思ったことと、すでに長文になっていたことから。


続き。(要約ではなく自分の想ったことの記事)