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『15の夜』と『卒業』:尾崎豊の歌詞は犯罪自慢なのか

高校生のころ、尾崎豊にかなりハマっていた。アルバムは初期から後期まで全部聞いたし、ライブでのMCを暗記して友人の前で暗唱したりしていた。

たまに、自分のTwitterタイムラインで尾崎豊が話題になることがある。しかし概ね、下記のような内容のコメントだ。

尾崎の歌詞には共感できないよね。盗んだバイクで走りだしたり、夜の校舎窓ガラス壊して回ったり。迷惑だって。

これは、尾崎豊をよく知らない人の多くが共通で持っているイメージではないだろうか。しかし、熱心に聴いていた身としては「刺激的な歌詞だけ抜き出されてつまらないイメージつけられちゃってるなぁ」と思うのである。

「卒業」の歌詞の意味

少し前、「卒業」の歌詞を分析している動画に出会った。これは見事な解釈で、32分の長い動画ではあるが、興味のある人はぜひ視聴してもらいたい。以下、かなり乱暴に要約する。

 「卒業」は大人への反抗の歌というイメージを持たれている。しかし「俺」は従順にも「教室のいつもの席」に座っている。そして、「何に従い 従うべきか考えてい」る。学校の指導には全然納得しないけど、じゃあどうすれいいんだろうと、自分の生きる規範を求めて葛藤しているのだ。
 だから放課後の描写には虚しさが漂っている。抑圧的な学校から開放されている時間のはずなのに「孤独を瞳に浮かべて寂しく歩いて」いる。
 2番では、喧嘩の話に夢中になったり、愛に目覚めたりする様子が描写されている。学校での教えに代わる人生の規範を探しているのだ。しかし「力だけが必要だと頑なに信じ」たり「従うことは負けることと言い聞かせ」たり「人を愛すまっすぐさを強く信じた」りしている。つまり、喧嘩の強さや愛こそが生きる規範なのだと信じ込みたいという心境にすぎない。むしろ、これらでは満足出来なかったのだ。
 サビの締めは「この支配からの卒業」というフレーズだ。この支配というからには、他の支配も存在することになる。「卒業することで学校の支配からは逃れられるけど、それは自分を支配しているものの一つにすぎない」というニュアンスが含まれているのだ(※)。だから最後の大サビにも「これからは何が俺をしばりつけるだろう」という嘆きが出てくる。
 これらを踏まえてサビの歌詞を読んでみると「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」に武勇伝としてのニュアンスがないことがわかるだろう。むしろ「夜の校舎で窓ガラスを壊して回る、ということをしてさえも、自分は強い支配の中に絡め取られているという諦念」が表現されているように見える。

以上を踏まえ、わかりやすく書いてしまうと、こういうことだろう。
「学校という場所は抑圧的だ。行儀よく真面目に生きろなんて言われても納得できない。反発心をおぼえる。だから学校で教え込まれるのとは別の、自分なりの生きる規範(≒自由)を見つけたい。でも、不良になってみても、恋愛をしてみても、自分が自由だとは思えない。むしろ自分のそういうあがきも、支配する側にとっては想定内で、無意味なものに思える。どうすりゃいいんだ。」

ここまで読み込むと、「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」の箇所をピックアップして「幼稚で迷惑な犯罪自慢の歌」とあざ笑うのは、ズレた解釈だとわかるだろう。

「15の夜」は「卒業」の前日譚かも

では「15の夜」の「盗んだバイクで走り出す」はどうだろうか。こちらは「卒業」ほど難しくなさそうだ。我流で解釈してみる。

落書きの教科書と 外ばかり見てる俺 
超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる 
やりばのない気持ちの扉破りたい 
校舎の裏 煙草をふかして見つかれば逃げ場もない 
しゃがんでかたまり 背を向けながら 
心のひとつも解りあえない大人たちをにらむ 
そして仲間たちは今夜家出の計画をたてる
とにかくもう 学校や家には帰りたくない 
自分の存在が何なのかさえ 解らず震えている 
15の夜

1番のサビの手前までを引用した。まずわかるのは、尾崎が学校に閉塞感を感じていたということだ。閉塞感に対し、煙草を吸うなどの不良的行動で反発する。でも、コソコソと校舎裏で隠れて吸う必要があるし、見つかれば逃げ場もない。どうしても閉塞感から抜け出せず、ついには家出の計画を立てることになる。

もう一つ注目しておきたいのは「自分の存在が何なのかさえ 解らず震えている」という部分だ。これは「学校が教え込もうとしてくる価値観には反発を覚えるけども、じゃあどう生きていけばいいのかというと、よくわからない、苦しい」ということだろう。あれ、これって「卒業」で同じようなこと言ってなかったっけ・・・

盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま
暗い夜の帳の中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に 
自由になれた気がした 15の夜

問題の歌詞が出てきた。「盗んだバイクで走り出す」という歌詞は、何を表現したいのだろうか。ちゃんと読めば、バイク窃盗の武勇伝ではないことはすぐにわかる。校舎の裏で煙草をふかしてもダメならどうすればと考えたときに「こうすれば閉塞感から抜け出せるんじゃないか、自由になれるんじゃないか」とすがるような思いでとった行動が「夜の道をバイクで駆け抜ける」ことだったのだろう。だからこそ、この行動は「誰にも縛られたくないと逃げ込んだこの夜に」と表現されるのである。

では、この行動で自由になれたのだろうか。残念ながら、そんなことはない。「自由になれた気がした 15の夜」と表現されているのだ。追い込まれて、かなり思い切った反抗に出てみたものの、本当の意味で自由にはなれなかったのだ。

さらに2番では、意中の「あの娘」が少し登場する。

「夢見てるあの娘の家の横をサヨナラつぶやき走りぬける」
「恋の結末も解らないけど あの娘と俺は将来さえ ずっと夢に見てる」

不良っぽい反抗と恋愛。この二つの中には閉塞感を破るカギがあるような気がしているのだ。これって、「卒業」とそっくりではないだろうか。「卒業」と「15の夜」はきっと、同じ問題意識をテーマにした作品なのだ。後に書いた卒業のほうが「あがいたけどどうにもならなかった」という記憶とセットになっている分、内容が重たいのだろう。

つなげてみる

「15の夜」では、不良っぽい行動をとっても閉塞感は強くなる一方で、追い込まれて、何かが変わってくれないかなと「盗んだバイクで走り出」してみた。それは本質的な解決にはならなかったけど、その夜だけは自由になれた気がしたんだ。

ときは流れ、「卒業」する時になって思う。学校が教える規範に反発して、不良的行動や恋愛の中に本当の自由を見出そうとしてきた。閉塞感に追い込まれて「夜の校舎で窓ガラスを壊してまわった」こともあった。それでも、自由になんてなれなかった。むしろ、そういう反発も大人の側からしたら想定内、手のひらの上だったんじゃないかと思う。そして、これから学校の支配は卒業するけど、次は社会構造に支配されるんだ。結局何もつかめないまま終わるんだ。

まとめ

尾崎豊の歌詞でクローズアップされがちな、「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」と「盗んだバイクで走り出す」という2つのフレーズに込められた意味について整理してみた。どちらも「どうしようもない閉塞感を覚え、追い込まれて思い切った反抗をしてみた」ということの表現であり、その結果については「つかの間の自由を感じさせてくれたこともあったが、本質的な解決にはならなかった」と描写していることがわかるだろう。

歌詞に込められたメッセージが極めて優れたものであると主張したいわけではない。でも、当時の若者が抱えていた閉塞感と、そこから抜け出そうとあがく様を、繊細に描写することには成功していると思うし、自分の心にはしっかりと届いてくる。

だから、これらの歌詞がヤンキーの犯罪自慢という文脈に位置づけられ、固定化されているようにも見えるのが、とても悔しいのである。




※ 「学校の支配から卒業した後も自分は別のものに支配されるだけ」と尾崎が考えていたことは、例えば「Bow!」の歌詞などをみればわかると思う。