『モブサイコ100』:超能力に価値を感じていない超能力者の話
モブサイコ100を読み終えた。最近読んだマンガの中でもピカイチだった。当時、50話ぐらいまでは連載を追っており、その時には「無双系の主人公」と「ONE先生特有のギャグセンス」あたりを軸として理解していた。だが、通して読んでみると「明確なテーマを周到に掘り下げていった作品」という印象が残った。
特に重要なのは「超能力を持っていれば価値のある人間なのか」「思春期を経て大人へと成熟していくということ」の2点だろう。特に前者については色々と考えさせられた、自分の思考をまとめる意味でも書いてみたい。
※原作最終巻までの内容で語っており、ネタバレ注意です。
超能力を持っている自分には価値がある?
主人公である影山茂夫(モブ)は冴えない中学生だ。運動も勉強もサッパリできず、女の子にもモテない。しかし、彼には秘密があった。そう、彼は最強クラスの超能力である…
このように書き出すと、すごく凡庸なマンガに見える。しかし、ここで重要なのは、モブは自身がもつ超能力に大した価値を見出していないことだ。
弟を超能力の暴走で傷つけてしまった苦い経験がある。想いを寄せている幼馴染のツボミちゃんに超能力を見せても、彼女は相手にしてくれなかった。霊験には超能力を人に向けてはいけないと諭された。だからモブは偉大な超能力者でありながら、それに価値を感じていないのである。
そんなモブは、様々な超能力者(あるいは霊能力者)と出会うことになる。注目すべきは、その能力者たちが超能力に対してどのような向き合い方をしているかだ。
超能力結社「爪」の幹部や構成員:超能力を持つ自分たちは特別な存在であると感じ、一般の人間たちを支配するために使う
芹沢:超能力を持て余し、その位置付け方を他者に委ねている
最上:人間関係に恵まれなかったことから、人類への制裁に能力を使う
爪のメンバーの考えは幼稚だし、芹沢は思考を放棄してしまっている。最上にはある程度納得できる背景もあるのだが、視野が狭いことは指摘できる。
これらの人物と対峙していくことで、超能力を持っていることに溺れないモブという存在の特殊性が浮かび上がっていく。
地道な積み重ねの大切さ
超能力に価値がないとすると、勉強もスポーツもイマイチなモブは八方ふさがりなのだろうか。実際、序盤のモブは冴えない人間として描写される。
そんなモブを強く必要としてくれたのが脳感電波部のトメ部長である。彼女は「宇宙人と交流するという夢の実現に必要である」とモブを熱心に勧誘してくれる。モブにとって、自分の居場所を手に入れる絶好のチャンスだ。
だがモブはトメの誘いを断り、同じ場にいた肉体改造部の方に入部する。連載を追っていた当初は意表を突いたギャグに過ぎないと思っていたが、考えてみると筋トレは絶妙なチョイスだ。筋トレは他者との闘いではなく、自分との闘いである。そして、やればやるほど着実に成果があがっていく。
超能力はただ生まれ持っただけのものだ。自分の努力、自分の選択とは何も関係がない。しかし、身についた筋肉は正真正銘、努力の証明である。モブは超能力を使えば簡単に持ち上げられるダンベルを、腕を振るわせながら自力で持ち上げ、グロッキーになりながら走り込みを行う。
超能力者としての自分を認めてもらえる脳感電波部よりも、着実に自分を向上させていける筋トレを選ぶ。この選択こそ、作品のテーマを象徴していると言えるだろう。
これ以外にも、人前に出ることが苦手なのに全校生徒の前でのスピーチに挑戦したり、勝算を度外視してツボミちゃんに告白したりと、モブは常に必要な一歩を踏み出す。挑戦を先送りにすることはいくらでも正当化できるはずなのに。
挑戦しても、望んだ結果は得られなかった。しかし、一方でモブは身近な人間から評価され、応援される存在に変わっていく。
読者には無意味なテーマ?
「超能力を持つ自分には価値があるか?」というテーマは、一見すると読者の日常や人生とは無関係なものに思える。だって読者は超能力者ではないのだから。しかし、やはり本作には読者に伝えるべきメッセージ性が含まれていると考えている。
例えば、「超能力を持っている」ではなく「〇〇の才能に恵まれている」とか「両親が資産家である」だったらどうだろう?
いずれの特性も、他者から一目おかれたり、人生を有利に進められるものではあるだろう。しかし、そのアドバンテージは本人の努力や決断の積み重ねと無関係に得られたものだ。
「〇〇の才能に恵まれている自分は特別な存在」というような意識があるなら、それは「爪」の幹部たちと同じぐらい幼稚で恥ずかしい状態なのだ。それを本作は突きつけている。
一方で、「自分にはなんの才能もない」と感じている人にとっても、モブの成長過程というのは希望を与えるものだろう。モブのように、地道に自分を高め、時には勇気をもって挑戦し、自分をどんどん変えていけばいいのだ。
超能力が無価値、は言い過ぎ
作中で訪れる最後の試練は、自分自身と向き合うことだった。超能力の価値を否定し、正しい方法で自らを高め、変わろうとしてきたモブ。それは非の打ちどころのない成長に思えたが、一方で自分を厳しく律しすぎていたのかもしれない。
「自分のワガママを通したい、そのためには超能力だって行使したい」という素朴な感情も、考えてみれば自分の一部であることは間違いない。ここまで、モブはそんな素朴な感情自体を否定し、目をそらし続けてきたのだ。
素朴な感情を優先するもう一人のモブが人格を支配し、暴走する。しかし、モブと関わってきた人物たちが次々と暴走を止めに立ち向かっていく。
最終的に、モブは自らの二面性を受け入れ、さらに魅力的な人間となる。こうしてモブの成長物語は完結する。
生まれ持ったもの一つで自分が全肯定されることはない。だが、生まれ持ったものはやはり、自分の一部なのだ。
まとめ
『モブサイコ100』は確固たるテーマ性を持ち、対比的な構造を頻繁に作り出しながらテーマを周到に表現している作品である。
超能力が題材とはなっているが、生まれ持った能力とアイデンティティとの微妙な関係という普遍的なテーマに切り込んでいると評価できる。恵まれた人には謙虚さを、恵まれなかった人には希望をもたらしてくれる、名作と言えるだろう。
※すごく時間をかけたのに、うまく書けなかった。長期的に加筆修正をしていくかもしれない。
※※同作者の『ワンパンマン』でも、実は似たような主張は含まれていると考えている。サイタマは自身が最強であることを誇らない。それどころか、目の前の敵よりもスーパーの特売日(≒日常)を大事にしているようなところがある。