『卒業』後の尾崎豊をたどってみる

以前の記事で、『15の夜』と『卒業』の歌詞について考えてみた。この2曲にある「盗んだバイクで走り出す」と「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」という歌詞により、後世から単に迷惑な存在と位置付けられてしまっていると感じ、反論を試みたのだ。

少し真面目に歌詞に向き合えば、この2曲に武勇伝としてのニュアンスがないことはすぐにわかるはずだ。この2曲は、押し付けられた規範に抗いたくて、不良的行為に答えがあるような気もしたけど何もつかめなかったという若者の葛藤を描いたものだからだ。

さて、上記の記事をまとめた時点で、次の問いが生じてしまった。尾崎豊の活動は、『15の夜』と『卒業』の後も続いていたのだ。

結局、彼は「真実」と「自由」にたどり着けたのだろうか。

今回は『卒業』が収録された2ndアルバム「回帰線」よりも後の尾崎豊をたどってみたい。彼は結局、押し付けられた規範に代わるものを見つけられたのだろうか?アルバムごとに、歌詞の一部を抜粋しながら考えていきたい。

3rdアルバム「壊れた扉から」での戸惑い

「俺達の真夜中の翼は ぼろぼろになっていまう」
「いったいなんだったんだ こんな暮らし こんなリズム 
いったいなんだったんだ きっと何もかもがちがう 
何もかもがちがう 何もかもがちがう」 『Freeze Moon』より 
「Honey 俺は何処へ走っていくのか 
 町のドラッグにいかれて 俺の体はぶくぶく太りはじめた
 それでもまだこんなところに のさばっているのか 
 あの頃みたいに 生きる気力もなくして」 『Driving all night』より

歌詞を眺めていると、アルバムを通じて一つの通底する葛藤があるように思えてくる。すなわち「学校を卒業して社会にある程度順応してしまった。不良だったころの自分は過去のものになりつつある。だけども、規範への納得できなさというのは変わらず持っていて、その気持ちに着地点を見いだせていないんだ」というものだ。答えの見いだせなさというのは、まだまだ重たく抱えている。

4thアルバム「街路樹」で愛にすがる

「何かが俺と社会を不調和にしていく 
前から少しづつ 感じていたことなんだ」
「愛なら救うかもしれない 君の為なら犠牲になろう 愛という名のもとに 俺は生きたい 死ぬ為に生きる様な暮らしの中で 
ごめんよ こんな馬鹿げたこと聞かずにいてくれ」 『核』より
「愛したい 愛したい 愛したい 愛したい」 『・ISM』より
「答などなくていい その理由(わけ)は 
誰も皆 安らぎの始まりに 生きること 君を信じてみた 
夢を見るために 耳をすましてみた 嘘を消すために」 『LIFE』より

4thアルバムから、路線が変わり始める。「自由とは、真実とは」という問いと向き合うことに限界を感じ、愛に生きようともがいているように見えるのだ。しかも、そんな自分を突き放してみているもう一人の自分がいて、「本当に愛に生きれば解決なのか?」と自問自答しているかのようだ。

当時の尾崎はスランプで、新たな曲が書けないと葛藤していた。アルバムも発売延期を繰り返していたという。薬物所持での逮捕もこの時期にあたる。

5thアルバム「誕生」で確信にたどり着いた?

「男達は 鎧に身をかためながら 次に訪れる平和を待っている
 woo 矛盾するこの世界で woo 一番大切なものがある
 この 燃え尽きることのない愛は Fire」 『Fire』より
「人波に心許せず 君を思う心だけが暖かい」 『虹』より
「一日中 あくせくと 働けば背広もくたくた」
「俺たち今日も働きました」
「まだ燃え尽きぬ街を去り 家に帰ればHoneyとBabyの 寝顔にそっとKissしてやるつもりです」 『Kiss』より
「なぜ生まれてきたの 生まれたことに意味があり 僕を求めるものがあるなら 伝えたい 僕が覚えた全てを 限りなく幸せを求めてきた全てを」
『永遠の胸』より
「Hey baby 忘れないで強く生きることの意味を
Hey baby 探している 答なんかないかもしれない
何一つ確かなものなど見つからなくても
心の弱さに立ち向かうんだ さぁ走り続けよう 叫び続けよう求め続けよう
この果てしない生きる 輝きを」 『誕生』より

アルバム「誕生」において、尾崎のテーマは着地点を見つけたように見える。まず「真実」「自由」について、相変わらず彼はたどり着けていない。その点を明確に認めたうえで、それでも「真実や自由を追い求め続けること自体」を強く肯定したいという立場に至っているのだ。

ただ、真実や自由を追い求める道のりは険しく孤独なものだ。だから尾崎は深く苦しんできた。そんな中で救いだったのは、自分に寄り添ってくれる女性の存在であり「愛」だった。

「街路樹」の時点では、自分が一向に真実や自由にたどり着けないという葛藤から「愛」が答えであってほしいとすがっているような歌詞だった。一方でアルバム「誕生」においては、真実や自由に向かって生きていく、その孤独に耐えるための支えとして「愛」が捉えなおされている

だから、社会での不本意な時間を鎧に身を固めながらやり過ごし(Fire)、家庭を守ろうとしている自分をある程度肯定的に捉えている(kiss)。

加えて、2枚組のアルバムのそれぞれの表題曲、『誕生』と『永遠の胸』では、自分自身の人生が答えにたどり着けなかったとしても、そんな自分の在り方を伝えていくんだという、新たなメッセージも追加されている。

このように、尾崎は「街路樹」の頃のスランプから、一転して新たな視点を獲得し、成長した内容を「誕生」につづることができている。その背景には、街路樹の4か月前の入籍、そして翌年の長男誕生があると考えるのが自然だろう。

歌詞の外側:『普通の愛』

「誕生」までを読むと、「押し付けられた規範に代わるもの」という尾崎の中心的テーマについて、妻子を持ったことで思考が深まり、一応の決着がついたようにも思える。

ただ、尾崎が家庭を愛する良き父であったのかは疑わしい。というのも、「誕生」の翌年には不倫が発覚するし、その年に出版された『普通の愛』という短編小説では、妻であった繁美が執拗に中傷されているらしいのだ(直接読んではいないのだが)。

そういう意味では、真実や自由にたどり着けなかっただけでなく、彼自身の望むような愛もまた育めなかったようで、残念な話ではある。このあたりは彼が境界性パーソナリティー障害だったのではないかと言われる部分と関わる話なのだろうが、さすがに扱いきれないのでここでは省く。

まとめ

『15の夜』と『卒業』の歌詞には「押し付けられた規範に代わる、真実や自由といった規範にはどうやったらたどり着けるのか」という葛藤が込められていた。そして、尾崎はその後のキャリアでも葛藤と向き合い続けていた。

何しろ根本的な難題であるため、なかなか光明が見えないスランプの時期もあったようだ。カリスマとして期待されながら、一向に答えを見いだせないことに悩み苦しんだことは想像に難くない。

そんな中でも、結婚と長男の誕生をきっかけに、より力強い価値観に到達することはできていたようだ。

ただ、実際の結婚生活についての実態などを知ると、あくまでも「理想」を描いた歌詞であり、彼自身がその理想の体現者となることはできなかったのかなぁ…などと思ってしまう。





※6thアルバムへの言及もできず、また尾崎のプライベートでのエピソードも省略するので尻切れトンボになってしまったが、これ以上深めることも難しそうなので、この記事についてはここで筆をおくことにする。