オーディブル記録11『水中の哲学者たち』

著者は若手哲学者の永井玲衣。哲学対話の運営にも携わっている。そんな彼女のエッセイ。

哲学対話の場に参加しているときの場面が切り取られることもあるが、哲学対話自体の本ではないと思う。基本的に、永井氏が経験したことと感じたことを紡いでいる。そしてその根底には「水中の哲学者」というテーマが流れている。

「水中の哲学者」が意味するところ

哲学とは、何かを深く問う営みである。哲学対話の場面では、時間内に答えを出すことも難しそうな、大きな問いが設けられる。例えば「人は何のために生きるのか」なんて問いだ。時間内に答えを出せるかはともかく、参加者はその答えに向かって考え、言葉を交わしていく。

こういったテーマについて考えるとき、あまりスムーズに考えることはできないし、自分の思いをきれいに言葉にすることだって難しい。

それはちょうど水中にいるときのような不自由さとか息苦しさを伴うものだ。すぐには答えのわからない居心地の悪さの中で、それでも考えるということを手放さない子どもたち、大人たち。それが水中の哲学者たちなのだろう。

そして、哲学対話の参加者以外に、もう1人水中の哲学者がいる。著者自身である。著者の目から見て、この世界はわからないことだらけだ。哲学対話でお題となっているテーマについても、著者自身答えを持っていない。

それに、他者の考えていることだって、厳密にはわかりようがない。「怒ってる」とか「こちらの意見に賛同していないだろうな」とか、その程度はわかっても、当人の経験している思考の浮かび上がりや感情そのものを、そっくりそのまま理解するのは原理的に不可能なのだ。

著者はその「わからない」と言う感覚と共に生きている。とにかく本書の中でも「わからない」言葉が頻出する。「わかったふりをしない」という努力をしているわけでもないのだろう。きっと、腹の底から「わかった」と思えるためのハードルがもともと高い人なのだ。

そして、彼女はわからなさを楽しめもする。

答えを出さずに終わる

ある哲学対話でじれったくなった子供が言い放った言葉があった

「いいから、もう答え教えてよ。あるんでしょ答え」

うろ覚え引用

これは学校の授業の悪影響だろう。授業では既に確立されている答えに向かってみんなで協力しながら進んでいくことが多い。それに慣れると「今回もどうせ答えが準備されているんだろう」と思ってしまう。

でも哲学対話と言うのは答えが本当にわからないことに向かって、みんなで少しずつにじり寄ろうとしていくと言うことなのだから、もちろん的外れな要求だ。

こんな話を聞いていると、ネガティブケイパビリティの概念が頭をよぎる。人は何かに対して答えが出ない時、ストレスを感じる。そのストレスから解放されたいがため、安易で暫定的な「答え」に落ち着こうとする。この心の働きに耐え、わからないことをそのまま心に留めておく力がネガティブケイパビリティである。(まあ著者自身は、努力してわからなさに耐えているのではなく、わからなさを楽しんでいるように見えるが)


哲学対話の場は時間で区切られていて、答えが出るまえに終わることも多いようだ。「じゃあ時間がきたからこれで終わりね。」と告げると、子どもたちは「えー、もっと考えたい」というらしい。哲学対話が楽しいのもあるだろうし、答えが出ていない気持ち悪さもあるのだろう。

とはいえ、「生きる意味について」の答えなんてそうそう得られるもんじゃない。哲学対話の後にも知識や人生経験が追加され、更新されていくものでもあるのだろう。答えにたどり着くというより「この件について前進できたな」という手ごたえが得られれば御の字なのだと思う。

その他、雑感

エッセイとして面白かった。ユーモアもあるし、彼女から見た世界の見え方も面白い。そして、哲学対話の中の様々な光景も興味深かった。

付け加えると、オーディブルの朗読も女性の声なので、当人が語っているように感じたのも良かった。何しろ著者本人の声も容姿も、こちらは知らないのだ。エッセイなどをオーディブルで聴くとこの現象が起きるんじゃないだろうか。

ナレーターが読み上げているのに「これは著者が話しているのだ」という感触が強く湧いてきてしまう。でもそれが気持ちよくて、エッセイもオーディブル向けかもしれないと思った。


哲学対話のルールについて、少なくとも以下の3つが設定されるようだ。

・自分の言葉で語る(借り物の言葉で語らない)
・他人の話をよく聴く
・”人それぞれ”に着地しない

特に「”人それぞれ”に着地しない」と言うルールが最高である。”人それぞれ”に着地する議論のつまらなさは酷い。

「少なくともここまでは普遍的に言えるんじゃない?」という、広く共通了解を得られそうなポイントを全力で追及するような会話をぜひやってみたいなぁなんてことを思う。

ちょうどAmazonで頼んでいた『親子で哲学対話』が届いた。この勢いでその本を読んでみよう。哲学対話をやっている著者のエッセイよりも、哲学対話自体を音声コンテンツとして聞くとか、文章として名場面集を見せてもらうとか、そういうものの方が今自分が求めている体験なのかもしれない。

超相対性理論

ふと思ったのだが、自分が聴いているポッドキャストの中に、ちょっと哲学対話っぽいやつがある。『超相対性理論』と言う番組だ。

パーソナリティの3人はそれぞれ起業家であり、読書家であり、人文系の出身である。うち一人はCOTENラジオの深井氏だ。この3人でテーマを決めて語り合う番組である。例えば「我々はいかに数字の奴隷から脱却できるか」とか、「いかに疑心暗鬼から脱却できるか」という感じで、まぁビジネス文脈が強いネタも多いんだけど、答えを追求していく過程は哲学対話に近いものを感じる。(自分の言葉で話すというルールには抵触するかも。文献の引用が多い)。

深井氏がメンバーを外れ、ゲストを呼ぶようになってからはシナジーが生じるか否かが安定しなくなってはいるのだが、なんというかその場に混ざりたくなる対話である。

こんな感じで深堀りの話し合いというのを楽しみたいなという欲望はかなりある。

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