読書雑感:『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』

ここ数年、自分のなかでボクシングブームが来ている。
きっかけは井上尚弥vsドネア1。ドラマ in サイタマとも呼ばれる名勝負だ。

その試合自体が素晴らしかったことに加え、ボクシング系YouTuber達の動画を漁っていくのも楽しかった。あまり間を置かずにプロたちの感想や解説がアップされ、じっくりと一つの試合を咀嚼できる。YouTubeの普及がもたらしたこの環境は自分の気質にとてもマッチしていた。

動画を追っていると、そのYouTuber自身の試合が決まったり、動画内で有力選手の話が出たりする。どんどん興味を持てる選手が増えていき、現在ではかなり多くのボクサーについて動向を追うようになっているというわけだ。


このように多くの選手に興味を持つようになったとはいえ、やっぱり井上尚弥は格別である。彼の関連書籍も読み漁ってきた。そして今回、興味深い一冊が出てきたということで、読んでみた。

本書の概要

著者の森合氏は東京新聞の運動部記者。ボクシングを愛し、後楽園ホールでのアルバイトを目的に受験する大学を決めたほどだ。

そんな著者だが、井上尚弥という存在についてはうまく描けない。強さがなんなのかも明確に伝えられない。そんな問題意識から、井上尚弥に敗れていった敗者たちや、関連人物へのインタビューを行っていく。

佐野友樹
田口良一
アドリアン・エルナンデス
オマール・ナルバエス
黒田雅之(最多スパー相手)
ワルリト・パレナス
ダビド・カルモナ
河野公平
ジェイソン・モロニー
ノニト・ドネア
ナルバエス・ジュニア

選手への直接インタビューや、近い人物への取材を通じ、確かに井上の強さへの理解は深まっていった。拳の固さの証言、プランがすぐに察知されてしまう、自分がコントロールされているという感触… 

こういった対戦相手が抱いた感覚というのは貴重な情報だ。

浮き彫りになるそれぞれのキャリア・人生

井上尚弥の強さを伝える情報として、確かに本書は貴重な資料である。
だがそれ以上に、各選手の人生そのものが興味深かった。

インタビューにあたり、著者は井上尚弥戦だけを扱ったわけではない。各自のボクシングとの出会いから現在に至るまで、ボクシングキャリア全体を丁寧に聴き取っていった。すると選手はスムーズに自分を開示できるし、トークに勢いもついてくる。一つ一つの試合の重みというのが生々しく伝わってくる。何より、そのキャリアの中で井上戦がどういう位置づけのものだったのかも理解できる。

特に最初の佐野のエピソードは壮絶だ。ボクシングとの出会い、武骨なボクシングキャリア、網膜剥離を覚悟しての最後の大舞台。佐野選手の気持ちに突き動かされていく観客。10Rで止めたレフェリーの「佐野君、ごめんな」の一言。…涙なしには読めなかった。

他の日本人のエピソードも胸を打つものがある。みんな真摯だ。井上尚弥の強さ、強打を理解した上で対峙している。

一方、海外勢のエピソードからは、ボクシングへの向き合い方にも「お国柄」があるなぁと思わされた。メキシコのエルナンデスが象徴的だ。

メキシコ人にとって、ストイックにボクシング漬けの日々を送ることは難しい。最初にエルナンデスのトレーナーを務めたピントールの言葉が印象的だ。

ピントール「この国に規律というものはほとんどないと思っていい。日本とは別世界だよ」
著者「日本でも自分を律することはとても難しいですよ」
ピントール「いやいや、そういう次元ではないんだ。<中略>目標に到達するために力を注いだり、約束事を守れる人はなかなかいない。そこをしっかりすれば、メキシコでは他人と差をつけられる。規律は時間厳守から始まる。あとはお互いに約束したことを守ることだね」

ピントールはエルナンデスに才能を見いだし、規律を重視しながら指導した。エルナンデスは順調に勝ち星を重ねていった。しかし、初めての黒星を喫した後、エルナンデスはピントールに関係の解消を申し出る。敗北に向き合うことができず、トレーナーに責任を転嫁してしまったのだ。

その後、トレーナーを転々としながら世界王者にたどり着き、井上との防衛戦を迎える。だが井上戦の敗北は重たかった。エルナンデスは敗戦に向き合えず、体力もモチベーションも落ち、ボクサーとしての規律を失う。酒浸りの自堕落な生活を送り、結婚を約束していた彼女とも別れてしまう。

エルナンデスはピントールと別れたことを強く後悔しているという。


パレナスの話も面白かった。フィリピン産まれの彼は、12歳から週に1度ボクシングの草試合を行っていた。目的はファイトマネーだ。

そこから才能でのし上がったパレナス。そんな彼にとってボクシングは母国の家族や親戚を養う手段である。そんな彼は、日本である程度の成功を収めるとハングリーさを失っていく。

言われた練習はやる。でもつまらない反復を延々と続けることができない。気持ちがきれてしまう。パレナスに才能を感じた日本のトレーナーたちも、彼にじれったい気持ちを抱いていく。

お金のために毎週草試合をやってきた。日本に住み込んでファイトマネーを母国に送り続けた。彼は尊敬すべき人生を歩んでいたといえるだろう。それをハングリーと呼ぶことは十分に可能だ。

しかし、ボクシングへの向き合い方という意味では、日本人のような求道者じみたハングリーではなかった。出稼ぎにきて、マジメに言うことを聞いて稼いだという感じなのだ。

とはいえ、読んでみて「もっとストイックになれよ」とは思わなかった。ボクサーとして不本意なこともあったかもしれないが、家族から離れて日本に住み、危険なリングにあがり、家族や親類を養ってきたのだ。これはこれで、尊敬すべき人生だと感じた。

ライトファンの一方的な目線

自分の中でボクシングが盛り上がってきたのはドネア1からだ。だから多くの選手については「井上尚弥全KO集」のようなyoutube動画で初めて認識したことになる。

佐野選手を始め、多くの対戦相手についてダウン・KO周辺の数十秒だけを何度もみてきた。本書を読んだ後にしみじみと思う。こういった見方はなんと一方的で、残酷なことか。

リングで対峙する両者に人生のドラマがあり、それがリング上で交錯する。そして、残酷な結末が訪れたり、両者が歓声を浴びるような試合が産まれたりする。そういった人間ドラマの側面まで噛みしめてこそ、ボクシングを通じて深い感動が得られるのだろう。

人生の物語を作っていくということ

著者からすると、「敗戦の記憶を聞かせてください」と頼むのは気の重いことだった。だが興味深いことに、多くの場合、選手は井上戦について語ることを惜しまなかった。長時間のインタビューとなることも度々で、インタビューを終えても、もう少し残っていくように誘われることも少なくなかったようだ。

自分の人生についてじっくり聴き取り、伝えてもらえること。それを喜んでいる選手が多いように見えた。

単純に、「自分の人生についてじっくり聴いてもらえる」ということ自体の快感もあっただろう。だが、それだけではないはずだ。

自身の井上尚弥との戦いについて、自分のボクシングキャリア全体について、何なら人格についてまで、色々な人が好きなように解釈し、語っている。本人にとって不本意な内容だって多いだろう。

自分の言葉で丁寧に説明したい、自分の目線でみるとこういうことだったんですよと広く伝えたいという想いを、きっと多くの選手が抱えていたのではないか。

ボクサーに限らず、誰もが自分の人生という物語を生きている。不運や挫折と言った辛い出来事も、時間をかけて消化し、自分の人生の物語に取り入れているものだ。特にボクサーであれば、敗戦の一つ一つとどう向き合うのかは重要である。自己嫌悪でズダボロになり続けているわけにもいかないし、直視しなければ競技者としての伸びしろにも関わる。敗戦の受け入れはボクサーとしての器を問われる重要なポイントなのかもしれない。

井上尚弥と戦い、(多くの場合は)大きな力の差を感じながら破れていった選手たち。彼らもまた、それぞれのやり方で、その敗戦に向き合い、消化していた。

逃げずに井上と闘ったことを誇りに想い、その後のキャリアの支えにした選手もいる。「自分はかなり井上を苦しめた方なんじゃないか」ということを心の支えにしている選手もいる。ドネアはもう一度やれば勝てると思っているようだ。

そうやって敗戦を消化し、自分のボクシングキャリアに井上尚弥戦を位置づけ、その延長戦上の物語を生きているわけだ。

そうやって再構築された彼らの物語と、ファンが限られた情報でアレコレ語る内容には大きな齟齬があり、じれったい想いもあったのだろう。

彼らはきっと、彼ら自身の物語を知ってほしかったのだ。

「こんな僕のことを思い出してくれてありがとう」

エルナンデスの言葉が印象的だった。

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