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青年期との訣別(『パッチワーク・プラネット』論)

 読書界の一部では、熱狂的な支持を得ているアメリカの作家アン・タイラー(山田太一曰く「私にはこのよさが分かるけど、他の人にはどうかな?」じっさい、タイラーの作品は、日本では初版が出た後、重版されたことがないのではないか)の小説に『パッチワーク・プラネット(A Patchwork Planet)』という作品がある。不思議なタイトルである。意味がよく呑み込めない。よくわからないのだけれど、語り口の巧みさと登場人物たちの生き生きとした魅力に乗せられてぐいぐい読み進めてゆくと、物語の終盤で唐突に、作品のタイトルが指し示していたものが登場する。主人公の青年が勤める、老人や障害者にサービスを提供するレンタ・バックという会社の顧客の老婦人が死去したのちに、彼女の娘が、青年にキルトで作られた円形のアップリケを見せるのである。「プラネット・アース――地球よ」と。

 けっして完全ではないが、つぎはぎだらけで危なっかしいにせよ、この世界はそれなりのまとまりを保っている、という老女からのメッセージであろうか。周囲の人間がきっちりと把握できてはいないが、本人だけは自覚している主人公バーナビーの内部に根深く巣くっている破壊衝動を宥めるための先人からの贈り物であろうか。本当のところはわからない。ただ、バーナビーはささやかだが、体の芯をしっかりと温めるような何かを受けとっている。ところで、このプラネット・アースは作品の50ページあたりのところですでに登場している。

 アップリケの作り手であるアルフォードという名の老女の家の屋根裏には、バーナビーにとって重要なアイテムであるツインフォーム(人台)があるのだが、そのことが二人の間で話題になったおりに、ツインフォームを「服を縫うための人台」と勘違いしたアルフォードの口から「私、洋服を縫ったことがないのよ。今まで縫ったことがあるのは、せいぜい、キルトぐらいね。今は目が悪くなったから、そんなにやれないけれどね。地球のキルトをつくるのに、もう三年もかかっているのよ」という言葉がもらされるのである。その言葉の直後に、「ちっぽけな、青い地球なのに、なかなか仕上がらなくてね!」という言葉がつけ加えられるが、話題はバーナビーによって彼自身の一族の歴史へと転じられてしまうのだから、「パッチワーク・プラネット」の出番はそこまでであり、以後300ページほど、その姿を読者の目にさらすことはない。

 バーナビーは、最初の出会いにおいて、パッチワーク・プラネットの意味を掴み損ねたのだと、言ってもいい。この場面に象徴されるように、バーナビーは常にずれを生きることを強いられているようだ。バーナビーは、自分がのっている舞台の中に上手く収まることができず、自分の役回りを上手にこなしているかに見える者には羨望を覚え、大事な出会いは掴み損ね、遅れる形で出会い直しを演じなければならない。そもそも作品の冒頭で、バーナビーは、自分がずれてしまっている人間であることを宣言している。

 「僕は信頼できる男だ、とお客さんは僕のことを見ている。というより、少なくとも自分では、そう見られていると思っている。でなければ、なぜ、旅行に出かけるとき家の鍵を僕にあずけていったりするだろう」と、冒頭から語り始めるバーナビーは、次々と自分に寄せられる顧客の信頼の数々を具体的に挙げた後、反駁を加える。「でも、ロドニーさんは知らない。彼女はただ思いこんでいるだけなのだ。僕はいい人間に決まっている、と」そして、改行して、決定的な一行を書き添える。「考えてみると、そう思っていないのは、この僕自身なのだ」

 人好きがして、善人の評価を周囲から得て、じっさい先天的な資質としては善良であるのだろうが、30歳の誕生日を迎えようとしているバーナビーは、自分を肯定できないでいる。それゆえ孤立を招き寄せ、心を僻ませている。冒頭の第1章は、世の中を斜めから見るバーナビーのいじましい悪罵が連打される。

 第1章は、運命の女性ソフィア・メイナードとの出会いを描いた重要な場面であるが、この時のシチュエーションがなかなかユニークである。「あまりいいことがなかったその年の大晦日」、バーナビーはボルティモアの駅で、フィラデルフィア行きの列車を待っていた。目的は離婚した妻のもとに引き取られた娘のオーパルに会うためであった。そんな中、駅の構内を、「フィラデルフィアへいらっしゃいますか?」と列車待ちをする客に声をかけまくる中年男性が現れる。意味不明に興奮気味に尋ねまくるが、該当者は見つからず、ついには「学校の先生タイプ」に見える女性の前で「お願いです!フィラデルフィアへ行くと言ってください!」と叫んでしまう(こういう台詞回しがタイラーは実に上手く、タイラーを読む喜びの一要素となっている)。女性の返答は「ええ、行きますよ」。

 男性と女性のやり取りから、バーナビーは、男の大学3年生になる娘がフィラデルフィアから飛ぶ飛行機で外国へ留学に向かうというのに、パスポートを忘れてしまい、フィラデルフィアで立ち往生しているという情報をつかみだす。男は娘のパスポートをフィラデルフィアまで運んでくれる善意の人を探していたのである。「なぜご自分でいらっしゃらないんですか?」という女の自然な問いに、男は「妻を長時間一人にしておけないんです。パーキンソン病で、車椅子に乗っているもんですから」と答えるのだが、バーナビーの反応は「これだって、僕に言わせれば、かなり説得力に欠ける口実だという気がした。しかも、異常に運の悪いことが重なりすぎる。グズで抜けている娘に、大病している妻なんて!」と、斜に構えたものだった。このようなバーナビーのリアクションに、世界におけるバーナビーの立ち位置の一端がうかがえる。数ページ後には「僕が非行少年だった頃」という言葉が発せられるが、バーナビーはそこそこ複雑なものを抱え込んでいる人物である。

 パスポートを運んでやる善意の持ち主が、バーナビーと恋仲になるソフィア・メイナードだが、男がソフィアに手渡したものが「麻薬」かもしれないし、男は「テロリスト」かもしれないとも疑うバーナビーの観察は、人のいいソフィアとは異なるシニシズムに染まっている。そして自分とは異なる生存感覚を持つであろうソフィアに羨ましさを覚える。

 というわけで、ソフィアというその女性が、あずかった包みを指でつつくでもなく、振ってみるでもなく、隅をちょっと破くわけでもなく、そのまま膝にのせているのを見て、僕は、何と言うか、そう、羨望のようなものを感じた。大きく波のようにうねる羨ましさ。自分もあんなふうになれたらどんなにいいだろう、と思った。いやあ、驚いたなあ、自分だったら、包みを歯で嚙みちぎっていただろう、と。

 彼女の読んでいる本は、タイトルは見えなかったけれど、きっと何か、ためになるもの、教養を磨くものにちがいない。そうなんだ、こういう人たちは、ちゃんと先のことを考えて用意してくるんだ!発車まぎわに新聞売り場で「スポーツ・イラストレイティッド」を買ったり、もっとせこいことには他人の残していったやりかけのクロスワード・パズルで間に合わせようとしたりしないで、ちゃんと読む本を持っていこうと考えるものなんだ!

『パッチワーク・プラネット』

 根っからの悪人ではないが、おそらくは母親とのぎくしゃくした関係から精神的な安定感を欠落させていたバーナビーの性癖がうかがえる箇所である。あと3週間で30歳となる20代最後のバーナビーは、思春期の少年のように、周囲の世界にシニカルな視線を投げかけている。ソフィアが無事にパスポートの入った封筒を手渡した女子大生は、父親に連絡の電話を入れるが、その会話を盗み聞きしたバーナビーの反応はこうだ。

 電話を聞いて、そう確信した。あれは、自分が家族の自慢の愛娘だということを知っている人間の話し方だった。そんな感じのなにげない口調や、ざっくばらんな態度はやたらに演じられるものじゃない。演じられたら天才的犯罪者だ。

「『パッチワーク・プラネット』

 ここでもバーナビーの不幸な意識が顔をのぞかせている。高校時代非行少年で少年院のような施設に送られたことのあるバーナビーは、家族における疎外感をどうしようもなく抱いていて、全15章からなるこの長編小説の第1章における彼は、疎外感に由来するシニカルな世界観から逃れられないでいる。第1章の末尾は次のようなものである。

(略)そして、さらに羽模様のコートの女のことを思い出した。ソフィア。ソフィアは立派だった。すごくまじめだった。誰も見ていなくても、きちんとしていた。
 あーあ、ふつうの人より立派な人というのは、何がちがうのだろう?生まれつき何かを知っているのだろうか?そういう人たちは、世界をメチャクチャに壊したいという、あのわくわく、ドキドキするような衝動を感じることはないんだろうか?
 ひょっとして、善良な人というのは、単にほかの人より運がいい人間というだけのことじゃないのか?それは言い訳にならないだろうか?

『パッチワーク・プラネット』

 それなりに真実をついた世界観である。そしてまた、この作品が20代最後から30歳へと移行する男の物語として書かれているのは、「世界をメチャクチャに壊したいという、あのわくわく、ドキドキするような衝動」との訣別譚を内包しているからである。この作品の冒頭は、先述したように、「僕は信頼できる男だ、とお客さんは僕のことを見ている。というより、少なくとも自分では、そう見られていると思っている」であるが、この作品の最後の部分は「ソフィア、きみにはわからなかったんだね。僕が信用できる男だということを」である。

 30歳を迎えて、それなりに成熟し、やがて達観し、その結果、秩序(家庭)へと回帰するプロセスが、400ページという長いページ数を費やしながら、ゆっくりと丁寧に描き出されてゆく。物語の終盤で、バーナビーは「ああ、僕はかつて、求めて得ることのできるものはすべて手に入れていたのだ。家庭も、愛する妻も、僕自身のささやかな家庭も……。世界の中に居場所があったのだ。それを捨ててしまうなんて、どうしてそんなことができたんだろう?」という感慨に浸り、前妻のナタリーとの幼すぎた夫婦関係のことを反省しつつ、避けえたかもしれない破局や持続のすべの可能性を想起して「そういうことをもっと早く誰かに教えてもらいたかった」と思うにいたる。新しい恋人のソフィアと時を過ごしながら、「物事の表面だけを受け入れるのもよしとする接し方も、彼女を好きになった点の一つだった」という達観めいた境地に足を踏み入れることにもなろう。

 このような物語の展開を、文庫の解説を担当した山田太一は、「いや、人生をや関係を半ば諦めているのは、二人に限らないのかもしれない。この小説の大半の人物は、現実に深入りせず、どこかで諦め、なにかに耐えている。そんな底流の抑制が、アン・タイラーの詩なのかもしれない」と書いている。なるほど、この作品の世界は、世界の全体像というよりは、バーナビーの世話を受ける老女が作ったパッチワーク状の地球のように、あらかじめ、ある限定を蒙っている。「物事の表面だけを受け入れる」ように、世界は切り取られ、そこから世界を眺めている、と言っていい。パッチワーク・アースの作り主アルフォードさんが作品に初めて姿を現す場面では、次のような説明がなされる。

 アルフォードさんはマウント・ワシントンの白い羽目板造りの家に住んでいた。かなり大きな家だったが、古びてみすぼらしくなっていた。レンタ・バックのお客さんの家は大体そんな感じだ。(金持ちはレンタ・バックなんかに頼まないでフルタイムの使用人を雇うだろうし、ほんとうに貧乏だったら僕らに頼む金もない)。

『パッチワーク・プラネット』

 「金持ち」でもなく、「貧乏」でもなく、相対的には「中流」として安定している世界。それが「アン・タイラーの詩」の世界だ。この中流階級から世界は眺められている。「物事の表面だけを受け入れる」態度は、中流階級の美徳であろう。この美徳をバーナビーに指し示すソフィアは、バーナビーとの喧嘩の際、次のような言葉を口にする。「私はね、あんなふうに育てられていないのよ。悪いけど、それが私なの。ちゃんと話を聞いてもらって、思いやりをもって扱われるように育てられたのよ。私は自分が特別に大切な人間だと教えられたわ。電話を途中で切ってもいいような人間だとは教えられなかったわ」。ソフィアは、典型的な中流の生存感覚を身につけている。そしておそらくは、それは先進国の多数派の感覚でもあろう。

 とはいえ、バーナビー自身も、地元では誉れ高い「ゲイトリン財団」の創始者を曾祖父に持つ名家の次男坊である。であるがゆえに犯罪にコミットし、警察沙汰になった際も、刑務所には送られず、少年院っぽい高校のような施設に送られることで、最悪の転落を免れている。「物事の表面だけを受け入れる」という中流階級的美徳がここでも貫徹している。ただ少年としてのバーナビーは、この中流的世界から微妙にずれている。「世界をメチャクチャに壊したいという、あのわくわく、ドキドキするような衝動」に誘惑される感覚を身につけているのだ。具体的には、物語も終盤に差し迫った350ページ過ぎで語られることになるが、「両親を家から締め出して、食堂に火をつけ」る事件を引き起こしたのだ。

僕は、母がいつも蠟燭をつけるときに使う銀色のマッチ箱をつかむと、何も考えずにマッチをすり、カーテンに火をつけた。薄地のカーテンはめらめらと燃え上がった。父が、「消防署に電話しろ!」と言った。(僕に向かって言ったんだと思う。ほかに電話のそばにいる人間はいなかったんだから。)でも母が「ダメよ!ご近所のことを考えて!」と言ったとき、僕は食堂の椅子を振りあげ、窓をぶち割った。気持ちよかった。すっきりした。あの満足感は今でも覚えている。きれいさっぱり、こなごなに割れてくれた。

『パッチワーク・プラネット』

 少年時代のバーナビーには、「物事の表面だけを受け入れる」相対感覚には納得せず、パッチワークを引き裂いて表面の奥へと突入したい、という絶対的な欲望があった。その欲望がアン・タイラー的な相対性の重力圏から、バーナビーを引き離そうとする。この欲望は少年ないしは青年に特有の現象であるのかもしれない。吉本隆明は、宮沢賢治を論じた評論の中で、「青年が荒野をめざすのは、通俗作家が書く大嘘だが、青年が無償の理念か無償のデカダンスをめざすのは本当だ」という意味のことを言っているが、バーナビーが無意識のレベルで求めていたのは「無償のデカダンス」であっただろう。ちなみに「無償の理念」はアン・タイラーの他の作品『もしかして聖人』の主人公イアンが体現している。バーナビーもイアンも相対的な世俗空間からはみ出すような生を生きているが、彼らを相対的な領域へと引き戻すのは女性であり、理解ある年長者である。

 不安定に揺れ動くバーナビーに安定を回復させてやるのは、きまって女たちであり、彼が接する老人たちであった。この作品では魅力的な存在は女と老人であり、男たちはどこかぱっとしない。バーナビーの不良仲間だったレン・パリッシュはバーナビー一人に罪を押し付けてシャバでのうのうとしていたクズ野郎だし、兄のジェフも要領はいいがどこかしら鼻持ちならない感じがある。男性らしさを感じさせるのはバーナビーの同僚のマーティーンという女性である。彼女は中流というよりは下流の生活感を感じさせる点で、(ソフィアやナタリーとは明らかに違うタイプ)中流の圏域からはみ出ており、じっさいバーナビーとマーティーンは同じ車を共有し合って活動をともにする。彼らは一度だけ肉体関係を結ぶが、それっきりで、あくまでも気の合った同僚関係を維持し、それ以上の発展を繰り広げることはない。バーナビーの周囲はがっちりと、女と老人の重力圏で固められており、何をしでかすかわからない青年的運動を、聡明にかつ巧妙に、遠ざけている。バーナビーが放火騒動を仕出かした後、救いの手を差し伸べたのは、バーナビーの祖父であった。親戚のなかで孤立するバーナビーに、復活祭のイベントで会った祖父は、周囲がヴィンテージ物のシボレーだと騒ぎ立てる愛車をバーナビーに譲るのである。

「あのコーヴェットを、僕にくれるの?」
 おじいちゃんはうなずいた。
「くれるって、ほんとにもらっていいの?」
「おまえよりいいやつを思いつかないんだよ、バーナビー」
 そのときジェフがどんな顔をしていたか、僕にはわからない。ほんとうに、僕を羨ましいと思ったんだろうか?僕は兄のほうをちらりと見ることもしなかった。キーホルダーのチェッカー・フラッグを見つめながら、目をぱちぱちさせて涙を振りはらっていた。

『パッチワーク・プラネット』

 かくして、バーナビーは、ことによると極限を目指してしまうような青年的運動の方向から相対的な世俗空間の方へと着地させられてしまうというわけだ。アン・タイラー作品には観念的な叙述というものが一切ない。すべてはものの表情を通して語られる。いま登場したコーヴェットをはじめとして、登場人物のキャラクターの性質や輪郭は所有する自動車によって描かれる。レン・パリッシュの「レクサス」、ジェフの「マッチョ・タイプの四輪駆動者」、マーティーンの「でこぼこの赤いピックアップ・トラック」といった具合に。物質的な重力が健全に作品世界を律するのだが、それが中流意識に支えられたパッチワーク状の常識に基づくことは留意しておく必要があろう。例えば、ここでは人種問題がまるで存在しないかのように世界が動いている。「物事の表面だけを受け入れる」ことが優先されて、世界の矛盾や葛藤が隠蔽されている。それは、先進国の事情から世界を眺める中流多数派のふるまいと重なって見える。

 先日、テレビの報道番組で南太平洋のツバル諸島の海面上昇のことを伝えるレポートを見て、もはや異常気象問題は解決されるのは不可能だなと思ってしまった。去年というよりは、もうずいぶんと前に一線を越えたのだと思う。ある時期なら引き返せたかもしれなかったが、引き返せるタイミングを逸してしまった。ツバルのような地域を先進国は見捨てるのだろうと思う。

 ものの合理性を盾にして目先の利益獲得がゴリ押しされ、既定事実となってしまう。長期的ヴィジョンは即物的な効果が希薄であるがゆえ、遠ざけられる。「物事の表面だけを受けいれる」ことは、長期的な理念を放棄することのようにも見える。バーナビーの青年性に同調してみたい気にかられる。時代がかった宗教家のように「神の国」にこだわってみるとか。それも単細胞的に突っ走るのではなく、相対性が自虐運動を引きつらせながら絶対性を生み出してしまうようなギャグのようなヴィジョン。

 「神の国」を創り出すのはいたって簡単である。人間が神にメタモルフォーゼすればよいだけの話である。仮面ライダーの世界である。改造人間という大実験である。もちろんこれは連合赤軍への道である。それに私は社会に絶対性を持ち込むのはよくないと思っている。別に私は絶対性を、司馬遼太郎のように、毛虫のごとく嫌っているわけではなく、むしろそれに反応しやすいがゆえに、警戒しているのだ。とはいえ、社会を「夢」という言葉とセットで、安易に語りたくはない。「政治家には夢を語ってほしい」という人間を見たりすると、こいつ少しおかしいか、大人としての緊張感を欠如させているのかのどっちかだと思ってしまう。と同時に緊張感のない相対感覚というやつも大嫌いなのである。相対感覚が絶対的な強度で運動を展開しながら、異形ななにものかを出来させてしまうような光景をひそかに望んでいるのである。絶対性と相対性が微妙なバランスをとる運動……それは青年と老人の奇妙な同居を生きるふるまいなのであろうか。

 今回はボルティモアとフィラデルフィアが舞台となっており、青年の危なっかしさがテーマとなっているので、その周辺の音楽を。まずはニーナ・シモンの文字通り「ボルティモア」を。しかしそれにしても、黒人女性シンガーというのは、どうしてこんなにも歌がうまいのだろう。

 次いで、フィラデルフィアということで、フィラデルフィア・ソウルを。このジャンルは異様な層の厚さを誇っていて、選択に苦労するが、今回はスピナーズを。スピナーズも名曲ぞろいで選ぶのに困るがここではベタな代表曲の「It’s A Shame」。

 ラストは、青年系から、泉谷しげるの「電光石火に銀の靴」。石井聰亙の映画『狂い咲きサンダーロード』の挿入歌である。この映画観たい観たいと思いながらまだ未見である。ずいぶんと昔ほかの映画を観た際、予告で映像を観て西部劇みたいだな、と思った。その時流れていたのが泉谷しげるの曲で強く印象に残った。


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