比較する癖に対する自戒のまとめ
「暑い」と悲鳴を上げて一週間くらい経った
あの後、しなきゃいけない原稿とかがうまく進まないであるとか、仕事でそこそこ疲れた中絵の練習に迎えず布団に沈み、翌朝にやろうとするも結局何もできずにぼーっとしてしまうだとか、そういった出来事があった。
何かをインプットしようと思ってネットの海をクロールすると、検索能力が上がったおかげか様々な情報が昔以上に入るけれど、「自分よりも優れた創作物を作る事が出来ている」人がそれ以上に目に入るから、だんだん気が滅入って来て、自分のマイリストをぼーっと夏の暑い自室で聴きふけったりする日が一日、また一日と過ぎていくのだ。
そしてそれが6日くらい続いた今日の朝に感じたことが、自分自身の比較癖についてだった。
【前提】他者比較と土俵の違い
たとえば、お絵描きの話。そもそも僕はまだ絵がちっとも描けないし、描きたいと思ってもその気持ちがすぐにしぼんでしまう事が多かった。たとえるなら火が点きづらいチャッカマンのような感じで、どちらかというと周囲の絵を描く人からエネルギーをちょっと分けてもらって、どうにか「火」という形で燃え上がらせているような感じだった。
そして、そんな僕は周囲を見渡すと、自分の描きたいもの、やりたい事を惜しみなく、疑問も持たずに出来る人たち。躊躇なく炎を燃え上がらせることのできる人たちがたくさんいる。それに比べたら僕のこの炎、いや火は、チャッカマンどころかライターから出るような小さいものだ。吹けばすぐ消えてしまって再点火にも時間が掛かって仕方がない。だから別に自分が絵を描いても、何も変わらないだろうとも思ってい「た」。
そこでいつもループに陥って一日を無駄にしてしまうから、最近はここを境に考えを分岐させるようにしている。
そもそも今燃えられる人たちは自分と同じ境遇になかった。自分と同じ人生を歩んでこなかった。自分と同じものを見てこなかった。自分と同じ人に出会って、自分と同じ出会いと別れを経験してこなかった。
だから、『比較できない』
―――と無理やりにでも考えるようにするのだ(言語化ってすごくて、こうやって打ち散らかしている中でも思考整理が進んでいる)。
『土俵が違う』という言葉の通りで、モハメド=アリとアントニオ猪木のエキシビションマッチのようにプロレスとボクシングを同列に語ることができるのか? 野球とサッカーは同じものだろうか? 答えは当然、否だろう。――なら、自分が比較できる対象は唯一、同じルールのスポーツだけになる。比較することにより、変化を計測する事が出来る。学校の理科の実験でも、見たいデータをつかさどる部分以外の条件をすべて揃えたのと一緒である。そこから、自分自身を比較対象にすることでしか正確に比較のメリットを享受できないと考えて行く事ができる。比較できないもので比較しようとして自分をすり減らすより、比較とはそもそも何かを考えたうえで、自分の変化を測っていきたいものだ。
比較と嫉妬と逃避
・「この人は自分よりも〇〇が出来る、自分には出来ない」
・「どうしてみんな〇〇ができるのだろう、自分にはできない」
最近の僕の脳内でのセリフを正直に書き表すと、この二言に集約される。モノの見事に、他者比較の罠にはまっていることがわかるだろう。何かが出来る、できないの単純な二元論で「自分」の高低を決めつけているから、そりゃ何かをしたい、というパワーが削がれていても不思議ではない。そして出来ない、と思っておけば今の状況が変わることもない。変わることは苦痛だから、そのままの弱い小さい自分でいたいという心がある事も告白しておきたい。
「比較」して、「嫉妬」「羨望」して、結果的に「逃避」するのは自分自身への負のスパイラルへの入り口だ。なら、最初の「比較」をつぶすことで、その入り口に迷い込む割合をすこしでも減らせないかと思ったのが、今日のこの記事のまとめになるだろうか。
追伸:「過去の自分と比べて絵がうまくなった」系のハッシュタグ見ると、作品を多く作ることが出来てない自分のHPは一気にゼロになるので見ない。作品を多く作るためには、絵を描く動機だとか、自分が好きだ、と強く思えるものは何かという深堀だとかが必要なのだろうから、今後またどこかで行っていければよいのだが。
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