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『はじめてのウィトゲンシュタイン』古田徹也

有名な話だが、ウィトゲンシュタインは若くして『論理哲学論考』を書き上げた後、小学校の教師になり、哲学研究から離れる。その後、紆余曲折を経てケンブリッジに復帰し、遺稿が『哲学探究』として残された。
一般に『論理哲学論考』は「前期ウィトゲンシュタイン」、『哲学探究』は「後期ウィトゲンシュタイン」と呼ばれる。
『はじめてのウィトゲンシュタイン』の著者古田徹也氏によれば、後期のウィトゲンシュタインが大きく前期と考えを変えたのは次の点である。
前期ウィトゲンシュタインは、有意味な命題と無意味な命題の境界を確定でできるものだと考え、かつ、それを成し遂げたと考えた。しかし、それは間違いであった。何故なら、言語の意味とは文脈によって決まるのだから、有意味と思えた命題も無意味であり得るし、無意味な命題も文脈次第によっては意味を持つ。「無意味」な命題は無意味なのではなくて、現段階では「意味不明」なのであり、将来においては意味を持つ可能性があると言うべきであろう、と。

「言語の意味とは文脈によって決まる」
当然の話である。
私は、何故、そんな当り前の結論に達するのにそれほどの時間を費やす必要があったのだろうかという素朴な疑問を持った。

以下、私の推測(妄想)である。

分析哲学系の言語学は「文(命題)は世界を表象する像である」という大前提を持つ。(本書で言う「写像理論」)
その上で「夏目漱石は小説家である」というように世界を正しく表象している命題を「真の命題」、「夏目漱石は猫である」などというように論理的に、つまり文法的には正しく、その事態を想像することも可能だが、世界を正しく表してはいない命題を「偽の命題」、それ以外を「無意味な命題」とする。

しかし、そもそも、文(命題)が世界を写し取る像であるという考えが根本的に間違っているのではないか。

分析哲学は神を排除したところからスタートしたつもりでいるが、実は暗黙のうちに神の存在を前提にしてしまっているように思われる。それは「文(命題)は世界を表象する像である」という前提に現れているのではないか。
神は天地の森羅万象全てを創造した者である。そして、人間とは神を模して造られた存在である。
この関係を、言語哲学は意識しないうちに呼び込んでいるのだと思う。
世界(現実)とは神の創造物である。そして、神が人間を土くれから造ったように、人間をそれを真似して音の組み合わせから、後にはインクの染みの形象から現実を模した言語を創造する。
人間が神の写し絵であるのと同様に、言語は世界の写し絵(模型)である。また、そうでなければならない。
神の偉大な天地創造能力を表象能力として受け継いだのが人間であり、その点で他の動物とは完全に一線を画す。言語とは二次的な天地創造なのである。
言葉は世界の写像なのだから、それが文脈によって意味が異なってしまっては困る。何故なら、言葉の意味が変わるとは、言語と現実世界との写像関係が揺らぐということだからだ。写像関係が揺らげば、言語は神の創造した世界のモデルとしての意義を失う。
従って、ある命題は意味を持つか持たないか、また真か偽か、現実世界との関係において、それ単体で確定しなければならないと考える。
言語学者が意識せずに前提にしているのは、そのような考えだと思う。

2024.8.6 文章を多少修正しました。論旨の変更はありません。

2024.8.14 追記
貫成人氏の『哲学マップ (ちくま新書)』から図版をお借りします。
貫成人氏は「(ウィトゲンシュタインは)その初期において、論理の全体と世界の状態が対応関係にあるとし、その内部で語りうるものと、語りえないもの(論理法則そのもの、倫理や神の問題)とを区別すべきとした」と語った上で、次の図を示します。


ウィトゲンシュタインの世界

これを見ると、前期ウィトゲンシュタインが、世界と言語との写像関係を基本に思索していたことがよく分かると思います。

2024.9.9 《重要な追記》

以上のように、私は、言語を二次的な天地創造だと感じている無意識が、言語学者にあるのではないかと言ったのですが、それとほぼ同じことを指摘している方が既にいました。『はじめての言語ゲーム』(講談社新書)の橋爪大三郎さんです。
橋爪氏はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』が独我論であることを自ら認めている点に触れて、次のように書いています。

『論考』の主張を、もう一度思い出してみよう。
世界と言語は、一対一対応している。そして、それは、独我論をいみする。――こういう主張だった。
これは「世界は、言語があるようにあり、言語は、世界があるようにある」、ということだ。そしてそれは、「私がここに一人いる」ことで保証されている。
これは、私が、神のような存在であることを意味している。
     *
『創世記』の冒頭、神は、言葉で世界を創造する。
『ヨハネ福音書』は、《はじめに言葉があった、言葉は神とともにあった、言葉は神であった》という。
それなら、言語が、世界と一対一対応しているのは当たり前である。『論考』は、世界の創造主である神が、世界と言語をみたらどうみえるかをのべた書物、と考えることもできる。

『はじめての言語ゲーム』(橋爪大三郎)P88

説明する必要はないですね。
言語と世界の一対一対応(写像関係)は、『論理哲学論考』が二次的な天地創造であることの傍証であるといえます。

橋爪さんは、さらに、最初の人間アダムの命名行為こそが「独我論」であること、神に等しい行為をやってしまったウィトゲンシュタインは、その罪を背負って、哲学を捨て放浪(教授としての招聘を断り、小学校教師になった)を始めたのではないかなどと論を進めます。

私は、だいぶ以前にこの本を読んでいたのでした。しかし、当時の私に橋爪氏が何を語っているのかなど分かるはずもなく、今の今まで失念していたという訳です。
しかし、氏の論考に再び出会って非常に心強く思いました。
この神学思想はウィトゲンシュタインだけでなく、あちこちに散見されます。そのうち纏められたら、また note に書こうと思っています。

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