見出し画像

千葉雅也「なぜ文系は重要か:そのあまり言われない理由」について

前回の記事「『はじめてのウィトゲンシュタイン』古田徹也」で、私は、分析哲学系の言語哲学には「命題は世界を写し取る像であり、言語は現実世界の模型である」という考えが根本にあるという話を書きました。

千葉雅也さんの note で、この考えを補完するようなテキストを見つけました。「なぜ文系は重要か:そのあまり言われない理由」というタイトルの note です。有料ですが、是非ご覧下さい。

千葉さんは理系と文系を次のように区別します。
理系は人工言語(数学など)を使い、文系は自然言語を扱います。
人工言語は厳密に定義されており曖昧さはありません。しかし、自然言語は原理的に無限の可能性に開かれている。だが、それでは社会は崩壊しますから、いくつかの文脈にまたがった公約数的な意味を「仮固定」しています。

私が、注目したのは、千葉さんが、続いて「自然言語の究極形態は法であり、文系の王は法学である」と語り、そこから立脚して論を進めているというところです。

前回の記事で触れたように、命題は世界を写し取るものだと考えられています。そこには現実世界と言語の間に一対一の写像関係があり、人間にとって言語とは世界のモデルです。
そのようなドグマから必然的に導かれるのは、言語の体系化という発想であるのは明らかでしょう。
従って、理系(人工言語)の王は数学(記号論理)ということになります。
そして、その発想の延長上に、千葉さんの言う「文系の王は法学だ」という発想があるのは明らかです。
千葉さんの言う「文系」とは理系目線から見た文系であり、それこそが分析哲学の発想だというように私には見えます。

実際、千葉さんのいう「文系」と「理系」には大差はないですね。文系にはアイロニーやユーモアという揺らぎがあり、解釈可能性があるというのですが、逆に言うと、それしか差がないとも言える。「現実世界と言語との一対一の写像関係」という点では全く同じものなのです。

前回の記事を引用しますと、千葉さんのいう「理系」(定義が固定されている)は「前期ウィトゲンシュタイン」、「文系」(定義が文脈によって揺らぐ)は「後期ウィトゲンシュタイン」に当ります。

また、厳密に言えば、数学は、定義が定まっているのではなく、定義を放棄しているといえる。(公理は、現実世界における事実ではなく、公理系における仮定である)
たとえば「数とは何か」と問えば、たちまち議論百出となり、その意味は定まりません。

といっても、厳密さを追い求めるあまり現実を放棄したかのように見える数学ですが現実世界と無関係である訳がない。
あるいは、論理学に解釈の揺らぎはないようにも見えるのですが、しかし、記号論理といえども誰かが誰かに解釈を与えなければ成立しません。記号論理は記号論理単体で成立するものではなく、常に自然言語による補助が必要です。
人間の営みを人工言語と自然言語とに厳密に分けるのは不可能であり、だから、文系と理系を分けようとする発想も、どこか曖昧な結論を呼び込むものでしかないような気がします。千葉さんのテキストが今一つ説得力を欠いているのもそのためではないでしょうか。

追記 2024.8.11

まとまりのない、殴り書きの文章で申し訳ありません。
まとまりがないついでに、もう少し、気になった点を。

千葉さんは「なぜ文系は重要か:そのあまり言われない理由」において「理論的には自然言語には無限の解釈可能性がある」と書いているのですが、思考実験なんでしょうが、哲学者はすぐにこういう極端なことを言う。「理論的には」だったとしても「無限の解釈可能性」はさすがに言い過ぎでしょう。

千葉さんは多分「無限」を誤解している。
確かに、論理学において命題は無限に増殖する可能性を持ちます。
たとえば命題Aに対して¬Aが成立するし、¬¬Aも可能である。¬¬¬A、¬¬¬¬Aも間違いではない。以下無限に続く。
しかし、千葉さんの言う「無限」はそのような無限ではないでしょう。

さて、私の考えでは、上記の論では、言語が貨幣になぞらえられているような気がします。

千葉さんは、自然言語では複数の文脈に跨る単語の意味が、常識の範囲で比較検討して仮固定されているのだと言います。
ここで「文脈=取引」、「単語の意味」を「商品の価値」と読み換えてみましょう。
複数の文脈に跨がって意味が「仮固定」されるとは、複数の取引により商品の一時的な市場価格が仮に決まることに当ります。

「貨幣」とは現代においてグローバルなものです。
「言語」は汎世界的なものである。というか、神学的な意味で、そうであらねばならないのだというドグマが言語哲学にあるのだと私は思います。

また、物々交換の不便さから、貨幣が生れ、円滑な交換が可能になったという経済学の神話があります。
デイヴィッド・グレーバーが『負債論──貨幣と暴力の5000年』で、繰り返し繰り返し否定した神話ですね。
千葉さんの話を聞いていると、まるで自然言語が、その意味を決定(仮固定)する際に、透明で民主的な運用がされているかのようである。
そんな筈はない。そこには非対称で暴力的な関係があるのではないかと思います。資本主義の市場システムが透明で抽象的で民主的なものである訳がないように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?