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なぜ年上を敬う文化は生まれたのか

なぜ年上を尊敬・敬わないといけない文化は生まれたのか?実は儒教に限らず世界で普遍的に見られる道徳観である、年長者を敬う道徳観について考えてみた。 


まず、人類の歴史を大まかにたどりたい。人類誕生から狩猟採集の時代が500万年くらい続いて、次に農耕の時代が1万年続き、そしてたった250年程前に産業革命が起きた。人々は、数万年単位で変化のない同質な時代を生きていたが、テクノロジーの進化や社会の変化は時代を経るごとに加速度的に激しくなっていった。(コンピュータにおけるムーアの法則のように。)知識や技術の変化ペースがますます短くなっていく中、それと並行して人々の寿命も飛躍的に伸びて行ったので、ある時期を境にその社会の変化ペースが1人の人間の寿命よりも短くなってしまった。ここが重要である。1つの人生の中でその生きる社会が大きく変化するという状況がしばしば見られるようになった。今では10年後に必要な知識やスキルは今とは全く違うものになっていると言われているほどに変化が激しい。
現代を生きる人々は、この激しさを増す変化に合わせて日々学び続けなければならなくなっている。最近では生涯学習や人生の中での複数のキャリア選択に人々の関心が高まってきているが、それらも変化の激しさを表す良い例だ。


しかし歴史を大きく遡れば、変化の少ない時代はとても長かった。わからないことや困ったことが起きたときは、その集合体の中の最年長者に聞けばほとんど全てが解決する時代があった。つまり知識を貯め込めば貯め込んだだけ判断能力は向上したので、実際に彼らの指摘は正しかった。狩猟採取の一万年単位で変化がほとんどない社会を想像してみてほしい。あるいは近代に飛んで、二百年続いた江戸時代でもいい。子供の頃に学んだ知恵やスキルでも、老齢になっても一生使うことができただろう。現代のように、大人になったときにはそれらが腐って使い物にならなくなるなんていうことはそうもなかった。そのような変化の少ない時代では、人々の判断能力の差は単に生きてきた時間の勝負になるだろう。よって年少者の知識が年長者のそれに勝ることはなく、更には平均寿命も今ほど高くなかったので、そういった長老のような人たちの存在(正確には、彼らが持つ知識量と判断能力)はとても貴重で、コミュニティの中で日々の生活に大いに役立った。文字がなかった時代であればなおさら貴重であったに違いない。ー①
そこから「年配者を敬う」という倫理観が生まれたのだと思う。
年長者を大切に扱うことは、その集団が生き残っていく上でとても重要な意味があったのだろう。

しかし、現代ではどうだろうか?

家庭内でみれば、祖父や祖母のアドバイスはもはや機能しなくなってきていると感じる。(最近では父母親のそれでさえもそう感じることがある。社会の変化は一世代30年すらも待ってくれない。)
もちろん、どんなに社会が変わろうとも変わることのない人間としての普遍的な知恵もある。(例えば恋愛とか、道徳)
または変化させないことで価値を保っているものもある(伝統文化や伝統工芸など)実際、そういった分野では今もなお年長者の力は強い。


しかし生物の持つ倫理観とはその生物が全体としてより繁栄するように形作られた幻想に過ぎないので、歴史的に見ても結構ころころと変わっている。
ならば今、この「年配者を敬う」という倫理観、道徳観は、変化すべき時なのかもしれないと少し思った。健康寿命が伸び、人生100年時代の到来が騒がれる中で、単純に生きてきた年数だけで序列を作ることは難しくなっているのではないだろうか。僕は将来、年上という理由だけで若い人に敬われるような関係を彼らと築きたくはない。 

一方で、この「年長者を敬う」道徳観にはもう1つの根拠があると思った。『年配者がいたからこそ今の自分たちがいる。』ということである。(例えば産んでくれた両親。または社会の仕組みを先人から絶やさず繋いできてくれたことに対する感謝)』ー②
そして実際のところ、「何故年長者を敬うのですか?」と聞かれれば、ほとんどの人が②を答えるはずだ。少なくとも僕はそう答えるし、実際本当にそう思っている。
しかしまた思うのは、②の根拠は後付けにすぎないのではないかということで、①のように、「年長者のもつ知識量と判断能力は我々に有益だから(だったから)」なんて答える人はいないだろう。人々は納得感のある②の根拠を後付けで生み出したのでは無いだろうか。どうなんだろう。

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