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#えんどうプロジェクト(その1) #お金(信用)のあつめ方 のチケットサイトをオープンします

「お金は天下の回りもの」

これを耳にしたことがある大人は多いはずだ。むしろ聞いたことがないままに大人になれるのだろうか。ぼくは小さい頃から耳にタコはできないものの、自宅件店舗で飲食店を経営していた父親からうるさいほどに聞かされていた。

商売をしていた父親から聞かされていたのは、1,000円を手にするためにしなければならないことの大変さと、努力の方向性について話をされたのを思い出す。

自分たちが商売をして、儲けようと思うことは決して悪ではない。むしろ、生活をするためにしていることであり、自分たちが提供している調理や接客というサービスの対価を得ているのだから、悪いことをしているのではない、と。

ぼくの父親は話すのが得意ではなく、直接な物言いしかできないから、こんな風にテキストにするは愚か、面と向かって話そうものなら、理解できることとできないことがゴチャゴチャに混ざってしまうことがある。

そのため、ぼくや弟は話をするのに個別具体的な話をするようにするしかなかったし、そのように話せるようになったり、テキストに起こして残せるようになったのも、そんな関わりがあったからだと思っている。

話はそれたが、お金の話を我が家では親が逃げずに正面からきっちりと話をしてきてくれた。ぼくや弟の学費にはいくらかかっており、その返済に月額でいくらが支払われていること。

それに付け加えて、事業を営む上で従業員に支払う給与をはじめとした運転資金にはいくらかかっており、そのためには借金がいくらあり、その返済額は…などだ。

この時の話はいまだに鮮明に覚えているし、それを稼げるようになることこそが、商売なのだ、と教えられたと”勝手に”思っている。

何をするにしてもついて回る問題

事業を営むにしろ、勉強をするにしろ、生活を営むにしろ、何をするにしても、お金の問題はついて回るものだ。

給与と言う仕事の対価として支払われるお金は、その人の社会的な信用だと言われる。ただ、社会というのは日本の中でもそうだし、この地球の中のどこにだって、人が複数名いれば存在するものだ。いってしまえば、どこにでもあるのが社会。どこの社会に属すかによって、求められる価値が変わる。

日本で凡庸な価値を提供していたとしても、それた高い価値として扱われる国や社会はあるし、どの国や社会にだって、いまのところは生活をする上で”お金”は常について回る問題だ。

ただ、その立場が絶対的なものではなくなっていることも事実で、暗号資産などの登場により、より等価性価値に対しての認識が高まっているように感じる。簡単に言えば、お金の立ち位置が物々交換のイメージに近づいてきているような感じだ。

元々、ぼくたちがお金を使う場面は、スーパーで野菜を買うにしても、焼肉屋さんで肉を食べるにもしても、お金と物を交換している行為なわけで、特別におかしなことを言ってはいないと思う。

いつの間にか”お金”は崇高で絶対的な存在のようなものになっていて、その存在が自分や家族の生活を支える上での絶対的な存在であるのだと思い始めて他のだと思うし、自分自身がそうだった。今でもそうかもしれない。

お金をもっと別な言い方をするのが「信用」になる。

「信用」と「信頼」

Creditって英語があるけど、カードなんかで使われるものだ。これの直訳は「信用」だ。つまりは自分の信用に対して、一定程度の金額が付与されるカードがクレジットカードって意味になる。「月に〇〇円まで」なんて上限が定められていて、その上限は使用期間と返済をきちんと守り続けていることによって引き上がっていく。

あなたの「信用」が高まっているからだ。

「価値」は、需要と共有のバランスによって変容するもので、時と場所によってもいくらでも変わる。誰かにとって不要なカメラは、どこかの誰かにとっては絶対的に必要なものになる。それはお金だってそうなんだけど、その前提になるのが信用であり、信頼だ。

信頼は主観的で双方向的な価値観であるのに対し、信用は客観的で単一方向的だ。

クレジットカードは客観的に、例えば月額で30万円までなら前借りして使ってもいいよ、とされるケースが多いと思う。その上限を守りながら、きちんと毎月、使った分を返済していくと、上限額が40万円になり、50万円になると言った具合にどんどんと増えていく。信用が高まっているからで、これはクレジットカードの会社が客観的に単一方向的に評価をしているから。

信頼はと言えば、友人がお金を貸して欲しいとあなたにお願いしてきたとして、1万円は無理だけど、5千円なら貸せるってケースに出会した場合。その5千円が、その友人に対しての信用で、残りの5千円を貸すかどうかは、その友人がどんな情熱を持ちながら、あなたに対してお願いをするのかプレゼンをするのかはわからないけれど、期待値を引き上げてくれるかどうかにかかっている。

そう、信頼は感情が上乗せされた双方向的なやりとりがあるものだから、「期待」や「感動」などの情動の変化によって信用を引き上げる効果がある。逆を返せば、本来的な意味での信用を上回ってしまうことだってある。

それを利用しているのがクラウドファンディングであり、ベンチャーキャピタルからの投資ってことになる。

客観的な指標を踏まえながら、相手のどこを信頼するのか。信頼すべきポイントはどこか。人間性なのか、事業の将来性なのか。

それはそれぞれの主観によるところだから、どこがポイントになるのかはわからない。でも、感情があるからこそ、期待を大きくすることもできるし、大きく下げることもできる。それを左右するのは、先にも書いているけど、期待であり、感動なんだ。

つまり、お金の問題は信用の問題と、信頼の問題があって、今回のイベントはそこに焦点を当てていきたい。


新潟でだって挑戦できる

新潟ではクラウドファンディングを利用しての企画がもっともっと立ち上がっていいとぼくは思っている。

もちろん、大変は大変だ。リターンを考えるのも大変だし、リターンの手続きを踏むのだって大変だ。何よりも、その希望する資金が集まるかどうかは蓋を開けてみたいとわからない。だけど、「集まる企画」と「集まらない企画」があるのだけは確かだ。

その違いはどこにあるのかと言えば、企画者の熱量であり、本気度であり、信頼感だ。

客観的な指標で言えば、正直言って、確かに必要だと思えるものなんてそう多くはない。だから、あとは企画者の熱と本気具合、そして、それを支える人たちの本気度だったりと言った感情だ。

この感情の部分をなめていたら、絶対に資金調達なんてできるわけがない。

スタートアップの資金調達とクラウドファンディングの資金調達で根本的な違いはない。資金調達を求める人がこれまで何をどのようにしてきたのかという客観的な指標と、これからしようとしている事柄に対しての熱量と本気度合いという感情を図った信頼の二つが折り混ざって、成るか成らないかなんだ。

「簡単にお金が集まる」だなんてなめていたら、ウソみたいに大きく失敗する。

だけど、それを学べる機会も、仲間を作れる機会も、これまでは個別にやりとりしてきて、なんとか達成したり、失敗したりをしてきただけなんだから、機会を設けたいと思って、今回、企画した。

ぜひ、参加して、新潟を前向きで許容度の高い、革新的なことが起こる頻度の高いエリアにしていきましょう!

参加の申し込みは以下のリンクからお願いいたします!


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