福祉事業は尊い思考を持つ人の自己犠牲の上に成り立たせるべきなのか
どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。
福祉って、当事者にならない限りは関わりようがない領域だったりしますよね。
でも、少子高齢社会である日本では高齢者に対する福祉事業は、主に介護福祉の領域で多くの人員を必要とすることになるでしょうし、そんな未来は誰しもが想像しうる世界線でしょう。
正直なところ、自分の身近に、たとえば友人や知人が介護の業界に入ろうとしたら「やめておきなよ」と止めてしまう気がしてなりません。どうしたって身体的な労働が中心となる以上、ずっと現役でやり続けられるものではないことが目に見えているからです。
そういった献身的な思考を持ってくださる自己犠牲をも厭わない人がいるからこそ、介護福祉事業は成り立っていることは理解していますし、根本的に福祉事業に関わろうとする人たちは尊く、尊重されるべき人たちです。
だからといって、福祉事業が慈善事業的に誰かの犠牲の上で成り立つような状況になってほしくはありません。あくまでもビジネスとして成立させるようにならない限り、持続性がないからです。
ぼくは自身が障がい福祉の領域に関わる立場として、自己犠牲のもとに成り立つような状況になることを避けていくべき旨について #ひとり会議 をしていこうと思います。
福祉事業は自己犠牲の上に成り立たせるべきではない
まず、どんな事業であろうと「稼ぐこと」ができない事業は資金的にも運営的にも持続可能性が低くなります。
つまり、いくら社会的に必要な事業だからといっても事業の中で汗をかく人たちの自己犠牲に依存することは長期的に持続不可能です。
たしかに、そういった尊い人たちの思考があるからこそ福祉事業は成り立っていることは否定できませんが、そうやって中の人たちへの負担を強いる状況が持続されればされるほど職員の燃え尽きや離職が増えることになります。
それでも事業を構えている法人は事業を存続させるために中で働く人を確保し続けなければいけませんが、そうやって献身的な姿勢や自己犠牲の精神を前提に事業を運営することとなれば、必然的に労働に対する疲弊を増やすばかり。
グルグルと次から次へと人を回して事業を回す自転車操業となって行くことは、必然的に崇高な思考の使い回すだけ使い回すだけの運営体制となっていき、行き着く果ては砂漠のように荒廃した精神性で無思考的な事業担ってしまうことでしょう。
介護福祉だろうと障がい福祉だろうと児童福祉であろうが関係なく、そこには中で働く人たちに対するプロフェッショナルとしての適切な評価と報酬が重要となります。
つまり、事業を成長させることに貢献してくれる人材に対して青天井とは言わずとも大きな報酬がもたらされることを人事制度として設けることが必要となってくるでしょうし、それをするための前提として国からの公的資金を投入し安定した基盤をつくることが大事になってくるのです。
つまり、安定する基盤があるのなら、挑戦的な人材を登用・評価できる体制を構築し、自己犠牲だけではない運用をしていくことが福祉の世界でも必要となってきているのではないでしょうか。
「公的資金が投入されるから」と公務員的になりがち
公的な資金が投入される事業だからこそ、中で働く人たちには規則遵守の姿勢や安定性重視の傾向が備わることとなります。
就労をする人たちも「福祉は安定しているから」とか「これからもなくなることはないから」といった理由で業界や職種の選択をしていることもなくはないでしょう。
そうなれば必然的に業界や個別の施設においても硬直化していき、上記したような旧態依然とした体制を脱却する動きが生まれる素地はなくなり、変化への抵抗が生じやすい環境に陥っていきます。
いわゆる「公務員的な人たち」が集い、変革がなされない状況となっていってしまうのです。
それはつまり柔軟性の欠如ですが、通り一遍ではない利用者からの要望や要求に応えるためには硬直的な思考や体制では迅速な対応が難しくなってしまいます。
これまではそれを担当者をはじめとした事業者側の熱情や愛情によって乗り越えてきたのでしょうが、これからは働き手が少なくなっていくことを踏まえると、効率性や合理性といったビジネス的な観点で運営されることがどうしたって必要になってきます。
しかし、公務員的な思考や体制では手順や公平性を重視する傾向があるため、それを避けるためにも福祉の本質的な価値や使命といった根本動機を忘れることなく、ビジネスとして成長させていくことが今まで以上に求められるようになっていくはずです。
福祉事業もビジネスの観点から持続可能にする仕組みづくりが必要
福祉事業がビジネス的な観点を持つとはどういうことか。
財務管理は当然ながらどこの事業者でもやっていることでしょうが、効率的運営による長期的な事業継続性の確保が重要です。
言葉にするのならば、イノベーションを促進し、サービスの質と効率性を向上させる必要があり、それによって言葉は適切ではないかもしれませんが、福祉事業を享受せざるを得ない人たちの中でも「支える人」と「支えられる人」をつくっていくことを生み出すことです。
具体的に言えば、乙武洋匡さんのような「稼げる人」と、そういった人たちから「支援を受けざるを得ない人」とを明確にすることです。
批判されることを前提にしていますが、どうしたって福祉が必要な人たちが存在することは否定できない事実です。それを否定することはできませんが、 その中でも濃淡があるでしょうし、支援を受けながらも自立できる人には存分に活躍してもらえる状況を今よりも推進していくことが必要でしょう。
たとえば、障がい福祉の分野で賃金の問題を大きく突破できる人材には相応の報酬を与えるようなインセンティブ設計することや、それを実現するための支援ができる人材確保・育成のための適切なキャリアパスと報酬体系の構築が求められます。
だからこそ、先述したようなプロフェッショナルを評価できる体制が必要だと考えています。
そういった体制やビジネスモデルを構築した人たちには成果測定と透明性の確保、なにより資金調達の機会が増えていくべきですし、事業を担う者として資金提供を受けた以上は説明責任を果たす気概が必要でしょう。
そういったビジネスの視点がより強まっていく状況に、徐々になっていくしかないはずで、すでにそうやってソーシャルビジネスとして成長を見込んで投資をしている事業者は生まれています。
既存の事業者は公的資金が必要な事業だからと甘い試算をするのではなく、他のビジネスと競合し、打ち勝つようなモデルを構築しない限りは淘汰されていき、結果として利用者が困る事態に陥ってしまうのではないでしょうか。
おわりに
なーんてことを考えてきましたが、ぼく自身がこうやって考えるようになったのは、どうしたって自分自身が考えざるを得ない立場になったからです。
福祉を利用する人たちの中にだって、いわゆる「強者」みたいに振る舞える人はいます。その人たちに支援が不要とは言いません。必要です。必要ですが、その人たちは支える側に回ることも可能なことは事実です。
そういう人たちが堂々と振る舞えるような認識を醸成していくためにも、適正に評価される土台が必要であり、その土台を構築することは現在、福祉事業を手掛けている事業者に他なりません。
大変なのは理解していますが、どうにかできる可能性があるのなら、必死にもがいていくしかないんじゃないですかね。
ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)
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