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折り鶴問題から考える、各種メディアへの向き合い方

ようこそ、お越しくださいました。

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

最近のネットニュースはsocial media上にある著名人の投稿がニュース記事となることがある。正直、それを目の当たりにするとネットニュースなんてPV(閲覧)数を稼ぐためならなんでもいいのか...と残念な気持ちになることも少なくない。

ネット上で影響力を持つような人のことをインフルエンサーと呼称することに少ない人が慣れてきただろうし、この記事を読むことができている人はインターネットを利用してアクセスしているはずだから、きっとインフルエンサーなんて呼称になれている人なのだろう。

ただ、インターネット上に転がっている情報を取得する上で気をつけなければならないのは、そこに向き合う態度だ。何の気なしに受領するだけになってしまえば、それはもう餌に食いつく鯉のようなもの。

メディア側から見下す視線を向けられることにもなりかねないわけだが、今回はそんな話をしてみたいと思う。

▶︎ 裏の事情、背景や前提を知る

人が処理できる限界など、とうに越えた量の情報がネット上には行き交っている。

現代人に許されている時間は決して多くはないことから、真偽を確かめる時間を持て余していないことが多いのだろう。インフルエンサーなどと称される特定のポジションを保持することによって自らを支援する人たちを募ろうとする役割を演じる人たちの言説に踊らされる。

たとえば、最近だと2ちゃんねる創設者のひろゆきこと、西村博之氏とメンタリストDaigoが発信したことから着火するに至った「折り鶴論争」も、その一つだ。

「頑張っている人に届けたい」 ウクライナの人々へ折り鶴4200羽https://www.asahi.com/amp/articles/ASQ4D3W3BQ4DUTNB001.html

朝日新聞が報じた上記の報道を受けたネット上で影響力を携える両名の発信により、多くの人が千羽鶴に疑念を抱いたことから埼玉県の就労移行支援施設である「レイズアップ」に批判の電話が鳴り響くこととなった。

感情的な反応をしてしまった人たちが一定数以上いたために起こった悲しい帰結であるが、よくよく情報を見てみると、単なる押し付けではない点が浮き彫りになる。

ひろゆき氏&DaiGo「折り鶴論争」の裏で“気づくべき視点”

施設利用者が就労移行を実現するために行っていた作業の合間に用意した折り鶴をウクライナ大使館へ事前に要否の確認を行った上で届けることになっている。

つまり、わざわざ自分たちの余暇時間に制作した善意の押し付けではなく、自分たちが就労するための空き時間を要して制作しつつ受領する側に要否確認をとった上で贈答しようとしていたのだ。

▷ 論理的に考えれば無駄なこと

たしかに両名が発した内容には大いに賛同できる。

ぼくも千羽鶴には懐疑心を持ってしまっているし、あくまでも送る側の論理を全面に出してしまっている善意の押し付けでしかない。

たとえば、スポーツ系の部活動などでトーナメント制の大会などに臨む際に保護者や登録選手以外の手によって折られたであろう「祈りを込めた千羽鶴」が用意されるチームがある。

そのチームが残念ながら敗退が決定すると、その敗退の対象となった勝利チームに向けて自分たちの祈りを引き継いでもらうために贈答するのだが、、ハッキリいってしまえばもらう側からすると迷惑でしかない。

縁起を担ごうにも負けたチームから渡されたものであるから決して縁起はよくないだろうし、かといって自分たちが勝ち進んでいき、最終的に優勝などとなった場合でも、最終的には処分をしなければならないのだが、処分する際にだってどうも気分が良くない...。

ましてや被災地や戦争被災に直面している人たちに向けて贈答しようとすることは、腹の足しにもならないだけではない紙クズであるのは確かで、それをわざわざおるような時間があるのなら、支援金を捻出するように就労したりすることが妥当である点については大いに同意する。

論理的に考えれば、折り鶴を送るのではなく別の行動を取るべきだという点は反対のしようがないものであることに疑いの余地はない。ただ、それらの発信を鵜呑みにしていいのかどうかは別なのだ。

▷ 一番悪いのは電話をかけた人たち

今回の件で、最も悪いのは情報の精査もせず感情的に誹謗中傷の電話をかけた人たちであることは言うまでもない。

その人たちは、おそらくウクライナの人たちでもなければ家族にウクライナ人がいるわけでもないだろうし、大使館で就労しているわけでもなければ大使館で就労する家族がいるわけでもない、ただの暇人なのだろう。

感情的に本気になりながら意見をぶつけたかったのか、それとも電凸と呼ばれる電話によって問いただす行為を露悪的愉快犯として行っているだけなのかにもよるが、いずれにせよ、この人たちが行っていることは論理的に考えれば圧倒的に無駄である点は書き添えたい。

ひろゆき、Daigo両名の発信を鵜呑みにするだけで前後情報も取得せず、ただただ感情の赴くままに施設に向けて嫌がらせを行っているのだから社会的に迷惑な行為をおこなっている点において、まったくもって何の役にも立っていないのだ。

上記した折り鶴を送る行為を自己満足で自己有意的な行為と行動であるのだと糾弾したいのかもしれないが、施設に電凸をすることは、そんな批判したい態度とまったく同じような姿勢である点は否定のしようがない。

こんな観点を持っているのであれば、初めから行ったりしないだろうが、そこまで考えることもないのだろうし、感情的になれば何でも許されると思っている点からすると非常に浅はかな行為・行動であるといわざるを得ない。

▷ 情報の出し手と受け手における関係

もう一点付け加えるならば、情報の出し手である各メディア側も問題だという点は忘れたくない。

以下の記事は一例でしかないが、ここからわかるように両名が何を述べたのかを取り上げはするものの、前後関係や背景、前提条件などはすっ飛ばした記事が量産されている。

ひろゆき氏 折り鶴論争に再言及「折り鶴を送る人は善意の人なので愚行と知れば、他を選ぶ」

ひろゆき氏、ウクライナへ折り鶴に疑問「処理に困るなぞの紙切れを送られても」

中には意味のわからないところに踏み込んで解説をしようとしている記事まで出てきた始末だ。

メンタリストDaiGo「千羽鶴送る」を批判 もらう側の扱い方と経費は

記事を出す側であるメディアが情報の一次情報まで追わずに大衆に向けて発信を行なってしまった結果、社会的な迷惑行為を行うものを生み出したのだとすると、メディア側の問題でもあるといえる。

情報の出し手と受け手の関係性は上下関係ではなく対等でフラットな関係だ。

つまり、相互に監視する必要があることと、相互に確認し合う姿勢が必要なのであって、どちらかの情報を鵜呑みにすることは避けるべき関係性である。

情報を出す側は出す側として、丁寧に情報を整理する必要があるし、受け手は受け手として収集した情報の真偽をたしかめる姿勢を失うべきではない。
感情的な思考と論理的な思考との狭間で揺れることこそが、人間的な営みにおける最も贅沢な時間だとすらいえるものの、片方にだけ偏ってしまえば人間性を損なってしまう危険性すらあることを自覚すべきだ。

そんなわけで、今日もネット上の生ごみとなるコンテンツを生成したぼくでございました。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

トイレットペーパーの三角折り
日常的に折るのだとしたら、こちらの方が圧倒的に社会への優位性を持っているといえる。言えなければおかしい。ぼくは公衆トイレに入ろうならば、可能な限りこうやって折って出るようにしている。やりたいからやっているのだ!

折り紙というアート
いや、見事な作品たちに見入ってしまう。ぼく自身は折り紙を折ることが苦手な部類だけれども、誰かが制作した折り紙を鑑賞するのは大好きだ。どんなものであれ、制作物に向けて尊重する心を持っているといえばいいだろうか。とにかく制作物が大好きなのだ。

継続するコツ  第0回 はじめに
坂口さんは常態的に発信を繰り返し、命の大切さを説いてる。上記文中で出てきた電凸をするような人たちとは明らかに階層が異なるわけだが、そこに本人なりの意義を見出している点では同等なのかもしれない。もちろん、どちらかといえば社会的にも意義のあることに向けたいとは思う。

▷ 紹介したい関連書籍

写真でわかる 決定版 おりがみ大百科
我が家の子どもたちが折り紙にはまった時期がある。その時期に購入したのだが、あまりにも難解なために挫けてしまう作品があるものの、これを考えて実践でき、尚且つ書籍にできる人ってすごいなぁ...と感心してしまう。そういう意味では観賞用にも適しているかもしれない。

▷ えんどうのTwitterアカウント

僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。

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