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あなたが”広告”を嫌いな理由はなんですか

ようこそ、お越しくださいました。

はじめましての方から頻繁に起こしいただく方まで、ようこそ。 どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

このnoteでは、特に読む必要がないと感じられることかもしれないけれど、ぼくがだれかと対面して話したい”雑談”を文字化するものなので、そんな雑談にお付き合いくださる方は、ぜひ読み進めてください。

今回は広告について。

「広告」が嫌いなのか「ストーキング」が嫌なのか

インターネットの中で広告に触れる機会が増えたことから、広告を気にする人は増えたのではないでしょうか。

マイボイスコム株式会社が行った調査によると回答数10,076件のうち、大半が「煩わしい」、「イライラする」といった後ろ向きなものから、「おもしろいものなら…」や「得な情報があれば…」といった前向きな反応までが4割に満たない中でひしめき合っています。(複数回答)
また、特に興味深いのは「表示されたWebサイトやアプリ等の印象が悪くなる」といった回答が14.9%と、1人/10人以上の人が広告におけるブランド毀損の可能性を示している点は広告を出稿する側は気にしたほうがいいと思える結果ではないでしょうか。

【インターネット広告に関する調査】直近1年間にインターネット広告が表示された人のうち、広告をクリックした(意図的に)人は約26%。「広告を間違えてクリックした」5割、「広告を閉じた」5割弱

テレビや新聞雑誌などの広告は「見ない」ことが容易に選択できました。テレビ番組を視聴しているときに挟み込まれるCMは子どもの頃から大嫌いでしたが、まだトイレに行ったり食器を片付けたりするなど「対応は可能」だったので、いまほど嫌悪感を覚えることはありませんでした。

インターネットが普及し、個人で小型で性能の高いネット接続端末を保持している現代の状況では、特に動画視聴をする場合に表示される広告は時間的な制限があるため逃げられない状況になる機会が多く、それを受けてイライラしたり煩わしく思ったりするのでしょう。

ただ、前向きな理由が掲載されていることを踏まえると、内容が個人にあっているのかどうかにも依る部分があり、最適化された広告なのか無差別的に出稿されている広告なのかによっても印象が変わってくるものと思われます。

自分に最適化されていない広告

インターネットやSocial Mediaの普及に伴い、広告の精度は明らかに高くなったのはいうまでもないでしょう。

Facebookなどの個人情報の宝庫では精緻な設定が可能になるため「〇〇に住んでいる、○歳の男性、家族構成は〇〇で、〇〇に興味があってよく反応する投稿は…」みたいな設定が可能になるのだから、個人に向けた広告配信がやりやすくなっているのは間違いありません。

だからといって、すべての広告が端末を持つを操作する自分に最適なものが表示されるのかというと、そうとはいい難い場面に出くわしたことがある人が大半でしょう。体感的に最適な広告表示は回数からすると1/10にあれば確率的に高いといわざるを得ません。

ですが、そんな低い確率の中でも自分の状況と要望に適合した広告が表示された場合、ついつい反応したくなるのではないかと思うのですが、一点気になるのは、広告を閲覧するもしくは広告から流入した先で何かしらの操作を行うことも時間を使うことになる点です。

広告を閲覧しているということは自身の可処分時間を使って「コンテンツ」を享受していたのは間違いないでしょう。

その人の前向きで享受している可処分時間を奪って広告を表示し、かつ広告から流入して何かしらの操作まですることを促しているのだとしたら、それもコンテンツによる時間の消費だと見ることができます。

インターネットの普及によってあらゆる映画やマンガ、アニメにWeb記事などあらゆるコンテンツに触れる機会は増えました。広告もコンテンツであるとするならば、無駄なコンテンツを生成している人たちがいるってことにもなるので、なんだか物悲しい気分になります。

明らかに不快な広告

ぼくがYouTubeで動画を視聴している際に表示されるもので不快だと感じるのは、非モテっぽい男性が出てきて「何もかもがうまくいってた。あの時までは…」みたいな流れで表示されるクソどうでもいいマンガ調の音声付き広告。

明らかに負の感情を引き起こすことを想定して制作されているのではないかと勘ぐりたくなるような広告コンテンツに出会った際には、広告主に向けて嫌悪感を抱くにまで至ります。もう、これは仕方がないといえるかもしれません。

表示する媒体が、従来のマス型広告であれば出稿するにも新聞や雑誌などでも相応の品質が求められましたし、テレビ広告なんかもしっかりとした金額が徴収されるものですから変に質の低い広告を作ること事態がはばかられました。

理由は簡単で、ニッチな分野に向けて差し込んでいくような商材であった場合、そこまで広告予算を設けることができないため誰も見もしないような雑誌広告の中でも小さな枠で埋もれるしかなかったものが、インターネット広告の出現によってオークションの金額次第ではあるものの他の商材と同様の露出機会に恵まれているのがそれです。

これからも減ることはないだろうし、最適化された広告が嫌なのであれば不快な広告の表示回数が増加することを享受する他にないかもしれません。

追いかけてくるストーキング気質な広告

個人に最適化された広告とは、何を持って最適化なのかを定義する必要があります。ぼくとしては、自社の製品やサービスを利用した人が滿足する状態になったときに「最適化された広告」と述べるべきだと考えていて、ただ合致しそうな人に表示されるだけでは足りないと思っています。

その意味ではあらゆる属性に振り分けられ、その属性に向けて出稿した広告の場合、個人の状態など関係なく表示される広告もあれば、どんな語句を検索しているのか、文面で投稿しているの家といった行動まで踏まえて表示されるものまであります。

一度購買した人やWebサイトに一度でも訪問したことがある人に追いかけて表示する、といったストーキング広告まであるのですが、一度サイトを訪問した=購買転換率が高いのかっていうとそうではないだろうし、ひいては購買後の生活が充足するのかは別問題といえてしまいます。

このように、個人のネット上のIDやタグを付けて追い回すことは広告業界でよしとされているのか、ネット広告でよしとされているのかは正直わからないものの、現実・物理的な世界観で追いかけ回されたら溜まったものではありません。

それに近しいものでいうと郵便受けに投函されるDM広告なんかがそうなのでしょうが、少なくとも投げ込まれること事態に腹が立って仕方のない人もいるでしょうが、捨てれば一度で終わる不快感も、ネットでストーキングされようものなら幾度となく表示されてしまいます。

もちろん、個人に向けて「何回まで表示させる」といった上限を設けることが可能なため、同一人物に向かった10回も20回も表示される、なんてことはごく少数なものですが、短期間のうちに何度も何度も表示されてしまうと嫌いになってしまいますよね。

ストーキング行為が現実で嫌われるのと同様、広告だからといって許されるものではないだろうって話になるのではないでしょうか。

そんなわけで、ぼくが観測している限りの状況を踏まえ、嫌われる広告について雑談してきましたが、ぼくは根本的に広告を好きな人間です。

モノづくりが好きなのもあるからかもしれませんが、制作されたての製品を体現するような画像や内容を適切に説明してくれる動画などをみると興奮してきたりするものです。

ところが、クソどうでもいい広告が蔓延っているのを目の当たりにすると得も言えぬ不快感が生じてきたりして、それは「自分たちの伝えたいこと」しか載せていないからなのだと気づけました。

「発信」というものを考える際に、相手のことを考えることが必要なわけですが、クソどうでもいい広告にはその姿勢がないからなのだと気づいたのでした。

そんなわけで今回はこのへんで。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

「広告が嫌われる”本当”の理由」という文章を読んで違和感があったので、「”本当”の理由」を書いておく。
高広さんの文章は専門的に取り扱う人たちからすると大いに参考になるものばかりなので、界隈の人たちにはオススメしたい。上記、文中の内容も過去に高広さんのnoteを見ていたことから想起したのかもしれない…

「広告」がなくなる日。
ターゲティングとか、集客、刈り取りみたいないい方をするのが業界慣習的に当然のような状態になっているのだけど、とても人を扱っているような認識がない言葉選びに愕然とします。刈り取りって…広告がなくなった世界ではそんな言葉が使われないんだろうな。

広告を作る人の広告。
立場を変えてお客さんになるってのは本質的だなぁ、とぼくは思う。そもそも企業側の伝えたいことなんて生活者からしたら知りたくない。知らんわ!となる。

▷ えんどうのTwitterアカウント

僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。

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