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会社の中でそれなりの役職もなければ大した実績もない場合の処世術
はじめましての方から頻繁に起こしいただく方まで、ようこそ。 どうも、ゑんどう @ryosuke_endo です。
このnoteでは、特に読む必要がないと感じられることかもしれないけれど、ぼくがだれかと対面して話したい”雑談”を文字化するものなので、そんな雑談にお付き合いくださる方は、ぜひ読み進めてください。
はじめに
こんなタイトルにしたのはいうまでもない、ぼくがそうだったからである。いや、いまでも根本的に出来ない側の無能であることに違いはない。残念ながら…。
そんなぼくであっても、この年齢になるまで生きながらえることが出来ているのは恵まれていることを実感するし、生きながらえさせてくれる社会に日々、乾杯をしたくなる次第だ。
ちなみに乾杯はハイボールでお願いしたい。
少し前だったらビールが好きだったのだけど、最近は蒸留酒のほうが自分で濃度を制御できるのもあって…
そんなこんなで、ぼくのような無能であるがゆえに会社の中でも大した実績を残せるわけでもなければ、それがあるためにそれなりのポジションにもなれない人はどう生きたらいいのかを模索したい。
有能な人とは違うことを自覚する
過去のぼくがそうだった気もするのだけど、大抵の場合、無能側ヒト科生物は勘違いしていることが多い。何を勘違いしているのかというと「自分は何者かになれるのではないか」といった希望的願望を抱いている。
誰しもが自分の人生における主人公であることに違いはないが、他人の人生まで絡んでくる社会経済の中で主役になれる人などごく僅かだ。
この「他人の人生が絡んでくる」ところがスッポリと認識から抜け落ちてしまっているがために、自分は努力をすることによって主人公的な活躍ができるようになるのではないかと誤解する。
違うのだ。
自分の人生における主人公は自分でいいかもしれないが、他人の人生まで絡んでくる場合には主人公たる人物が明らかに存在するので、ぼくたち無能側はその邪魔をしないことを心がけるべきだ。
ここでは、主人公的な活躍をできるヒト科生物を有能な人とし、それが敵わない仕事偏差値が50未満のヒト科生物を無能としている。
仕事偏差値とは何で構築されるのか。
上司や同僚、顧客が依頼してくる仕事や業務・作業を、依頼してきた張本人が満足の行く形で納めることができるかどうかだ。
たとえば、〆切をギリギリになってから納品するのか、余裕を持って納品するのかは(モノによるとは思うが)評価でいうと後者のほうが評価されやすい。
上司が依頼した仕事で考えるとわかりやすいかもしれない。上司から依頼されたことを受取って業務を行い上司から「あれ、どうなった?」みたいに確認された時点で偏差値が下がる。
だいたい、どうなった?と聞かれている時点でどうにもなっていないし、むしろ何にも手がついてない状態のことが大半だ。
そうなると「優先順位を考えろ」と叱責を受けるが、優先順位を高めろと指示出さなかっただろ…とか腐った思考に至ってしまうが、「じゃ、聞けよ」と釘を差されてしまう。
典型的なディスコミュニケーションなわけだが、それを生じさせている時点で仕事偏差値が低くなるのは無能側だからであって、有能なヒト科生物はそんなことをミスとしてカウントさせない。
ぼくたち無能は有能なヒト科生物とは違うのだ。
対策「自分の判断を信用しない」
では、無能側の仕事偏差値を少しでも引き上げるためには何をどうしたらいいのだろう。今回の本題はここだ。
無能側でレッテルを貼られることに慣れ親しんでしまい、「このままでいいや」と自暴自棄でも何でもない、理想の楽園を手にしたかのような境地に達した人物はいい。放っておく。
そうではなく、無能ながらも仕事偏差値を少しでも引き上げたい。周りから評価されたい、役職を得たいと考えている場合、一つだけ処世術がある。
自分の判断を信用しないことだ。さらにいえば、自分で判断をしないこと、これに限る。
「自分のアタマで考えよう」ちきりんはそう書いたが、自分のアタマで考えることは無能側からすると困難がすぎる。
これだけ情報流通の速度が上がり、情報のシャワーどころかバケツの水をひっくり返し続けるような生活を繰り返していると、自分のアタマで考えるよりも他人の判断に触れたほうが解決しやすい。
たとえば、上司からの指示で「自分で考えろ」とか言われたのだとしたら、何を具体的にどうしたらよさそうなのか喋ってくれるまで質問するしかない。
だってわからないんだもん。
無能側の悪いところは「わかった気になること」だ。
ついつい、上司から何かしら業務のオリエンテーションを受けたり、打合せをしていて概ね方向性が決まったあとに「ダイジョウブ?」と聞かれたら「はい、だいたい」とか答えてしまう。
「だいだい」ってなんだよ。
まず、その「だいたい」といった自分の判断を信用すべきではない。安心してほしいのは、無能側の判断なんて誰も信用していないのだから、自分でも信用すべきではない。
いくら自分が好きだからといっても、社会的には仕事偏差値が50未満なのだから無能なのである。反対に無能だから仕事偏差値が50未満なのだ。
上司や役職を与えられている有能側は、他の会社に行ったり組織が変わったりした途端に無能側になだれ込んでくるかもしれないが、少なくとも目の前に座っている座席では有能側だ。
有能側が判断することと無能側が判断することのどちらが会社にとって「益を生み出しやすいのか」は考えるまでもない。
「忙しいから自分で考えろ」と言われたのだとしたら「いや、それで自分で考えたものを信用できないので答えてください!そっちのほうが費用対効果が高いんですから!」と食い下がるのだ。
「費用対効果」を口に出してもダメなら、他の仕事ができる側にいる有能人材に助けを求めよう。とにかく、徹底して自分の判断で物事を動かさない。
これに尽きる。
おわりに
このnoteをここまで読んでくれた方は、よほど自分の無能さに辟易としながらも自覚して「何とかしたい」と考えているのか、ヒマで時間を持て余した方なのだろう。
これまでもそうだが、上述してきたものは内容があるようでまったくない。一貫して無能は無能らしく他人の思考に委ねながら振る舞え、と書いているだけで、何の助言にもなっていない。
具体的な例示も、結局は自分で考えることを放棄しつつ、対人関係でどうにかカバーしろと記述しているものだから、呆れるほど参考になることが書かれていない。
ただ、一点だけ真剣に考えていることがある。
自分のアタマで判断しなければならないような仕事はAIなどの機械にやらせたほうがいい。あとは人間同士の馴れ合いや親しみ深さみたいなものが仕事にするかどうかを決める。
いま、有能側だと評価されているヒト科生物と無能側だとされているヒト科生物との差なんてものは、機械が導入されだした途端になくなってしまう。
いまは機械の導入コストが高いから導入されていないが、数年後には一気にコストが低減する可能性はある。
人の手計算で何度も計算するよりも表計算ソフトを使って計算している事業者や従業員のほうが多いはずで、「人が手打ち計算したほうが信用できる!」なんていうヒト科生物はいないだろう。
だから無能側は安心して貫いていいはずだ。いま、有能側にいるヒト科生物だって、数年後には同じ穴のムジナになるはずだ。
ではでは。
ゑんどう
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